クリスチャンの祈りは無駄にならない。
それは、必ず効果を発揮する。
聖書でクリスチャンの祈りは香の煙で表現される。
香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。
それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。
第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。 (黙示録8・4-7)
あるとてもよく祈る教会に行ったときのこと。
一歩礼拝場に入ったとたん、言い知れぬ力を感じた。何か力が充満しているような。そして、礼拝のメッセージを聞いているうちに、内側から固まりのようなものが口のほうへ昇ってくるような感じがした。
私は直感でこの教会は祈っている、と感じた。
それもそのはず、この教会は信徒全員でよく祈り、御名を唱える。
伝道集会の奉仕で、祈った場合と祈らなかった場合とでは、会場の雰囲気がまったく違う。祈らないで準備をしなかった集会は、「すかすか」である。
ぐっと手ごたえがない。集会場に入っても何も霊的な力を感じない。
すでに述べたように、聖書において祈りは香で象徴される。
香の煙は部屋に充満する。多く炊けば炊くほど煙は充満し、もはや息ができないくらいになるかもしれない。
祈りも同じである。ある空間に充満するものである。祈りを積むと、その空間に目に見えない祈りの煙が充満する。
伝道集会などをする前に、祈らないと、この充満がないから手ごたえがなく、力が弱い。そのため、救われる人も起きない。
黙示録のこの箇所では、クリスチャンの祈りが香となって神のもとに立ち上り、それに対応して神がイスラエルに裁きをくだされるということを示している。
祈りは歴史を変えるのである。なぜならば、全能の神を動かす力があるから。
祈りを積んでほしい。この世界から悪魔が追い出され、地上に義と平和の支配が訪れるようにと。あなたの祈りが天に充満するならば、主は歴史のコースすらも変えてくださるだろう。