正統派の三位一体論を三神主義と呼んではならない
正統派の三位一体論を、「三神主義」と評する人々がいるが、正統派の三位一体論は、多神教ではなく、一神教である。
たしかに神の位格(ペルソナ)は3つあり、それぞれが互いに語りあい、社会を形成しておられる。
しかし、同時に、彼らは契約を結んで一体化している。
契約的一体によって、彼らは「一つ」である。
この三位一体論を否定する人々は、「契約的一体なんて実際に一体ではないのだからやはり多神教だ」と言うのだが、彼らは聖書における契約の重要性を理解していないのである。
契約的一体は、現実的な一体である。
夫婦は結婚式において互いに契約を結んで一体化する。これは、実際的な一体化でもある。
神は夫婦を一人の人間としてごらんになっている。だから、妻が聖められたら夫も聖められていると言われているのである。
「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。」(1コリント7・14)
ちなみに、ここで子供も聖いと言われているので、夫婦の契約は家族の一体化の基礎でもあることが分かる。つまり、神は家族を一人の人としてごらんになっているのである。
契約的に見れば、未信者の夫や妻や子供は、自分から意図的に神の契約から出たいと願い出ない限り、神の救いの契約の中におり、聖められていると考えなければならない。
遊女ラハブは、その信仰によって神から義と認められたが、彼女の家族も彼女のゆえに救いにあずかったということが分かる。
「その人たちは彼女に言った。『あなたが私たちに誓わせたこのあなたの誓いから、私たちは解かれる。
私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。
あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。・・・』」(ヨシュア2・17-19)
このように、契約的一体というものは、神の目において現実なのであり、それを仮想的なものと考えることはできない。
イエス・キリストは、「私は世を征服した」と宣言された。
契約を理解していない人々は、この言葉に対して「なんだ、ただのこけおどかしか?現実を見よ。キリストは王でもなんでもないではないか。」と言うかもしれない。
しかし、イエス・キリストのこの「王権宣言」は、神の目から見れば現実なのである。
この世界はキリストの王国である。神はキリストと契約を結ばれ、「もしあなたが人類の代わりに律法を完全遵守し、義務を完全に果たすならば、私はあなたに世界を与えよう」と宣言された。
キリストが律法を守り、律法の求める犠牲を自らの死によって完全に成就されたので、神は彼を復活させ、そして、天の王座に据えられたのである。
イエス・キリストの王権はすでに確立した。これは、契約的事実である。
契約的事実とは、現実である。なぜならば、神がその契約を結ばれたからである。
「たんなる契約上のことでしょう。まだキリストの王国は現実にはなっていない。人々はキリストに逆らって、もしくは、無視して生活している。こんなのは意味のない言葉ですね。」という人は、神の契約の絆の絶対性を知らないのである。
全能者である神が、「この世はキリストの御国となった」と宣言され、そのように契約を結ばれたのであれば、誰もそれを否定することはできない。
この世界の中にいてキリストに逆らう悪霊たちは、次々と追い出され、時間と歴史の過程で、滅ぼされていき、ついに世界は実際的にもキリストの王国と変わるのである。
結論:
神が互いに契約を結ばれて一体となったということは、誰も解くことのできない絆が三位の間にあるということを意味する。契約的に一体であれば、実際的に一体なのである。
だから、このような契約的三位一体を三神主義とか多神教と言う人々は、神の啓示に逆らっており、神の現実を否定するという恐ろしい罪を犯しているのである。
2006年4月6日
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