アルミニウス主義の側から見れば、再建主義は、正面の敵である。
なぜならば、アルミニウス主義の基本は、「神の計画は、万物を包括する」という考えの拒絶だから。
そのため、責任に関するアルミニウス主義の教理は、すべてを包括する神の計画という考えの拒絶を前提として成立する。(C. Van Til, "Defence of the Faith", P&R, p.140)
再建主義は、ヴァン・ティル主義に基づき、「神は万物に対して計画を持っている」という前提から出発する。
だから、偶然などというものは存在しない。
すべてが神の計画に基づいて起こる。
神は、あらかじめ素粒子の運動一つ一つを計画された。
計画以外のものがこの世界において起こることはない。
この世界で発生するあらゆる事柄は、神の能動的な関与によって起こる。
銀幕に映る映画が、フィルムに収められている情報以外のものを映し出さないように、この世界で起こる一つ一つの事柄はあらかじめ計画されすでに決定されている。
だから、アルミニウス主義は本当のキリスト教ではない。
それは、神の計画によらない「裸の事実」が起こる可能性を認める。
だから、アルミニウス主義において、「神ご自身は、神の力と行動を決定する事柄と直面する。神は、神に関する『リアリティ』の事実によって制限されている。それゆえ、神の知識は、神秘によって取り囲まれている」(同上)。
つまり、神は、人間と同じように、力と行動と知識を制限されており、神の意思と無関係に推移する現実によって影響される。
このような神は、異教の神である。
聖書において、神は無から世界を創造された方である。
だから、神以前に自然は存在せず、秩序も存在しない。
神からすべてが発しているのであるから、神だけが権威である。
アルミニウス主義によれば、神すらも、ある基準で評価されるべきということになる。
これは、ほぼローマ・カトリックの教えである。
このような「自律的に存在する領域」を世界の中に認めるならば、早晩、カントのようにすべてを自律的領域にする考えに道を譲ることになる。
アルミニウス主義は、キリスト教というダムの中に異教の穴を開けた。
そこからチョロチョロ水が漏れてきた。
いずれダムを決壊させるだろう。
事実、ダムは決壊し、キリスト教は、いまや敵の教えに完全に飲まれた。
カントの作ったヒューマニズムという宗教によって、完全に支配された。
最後に残ったのがヴァン・ティルである。ヴァン・ティルの弟子たちも、彼の思想を徹底して保守することができず、次々とヒューマニズムに飲まれていった。
残るは再建主義しかない。
アルミニウス主義のキリスト教は、キリスト教破壊の一里塚である。