ポスト・ミレを採用するしか教会が生き残る方法はない
ディスペンセーショナリズムの批判論文を関西聖書学院が出したそうです。
http://www.aguro.jp/d/jec_kbi/100331_k_Dispensation_Eschatology_Problem_by_Nakai.pdf
批判そのものは妥当ですが、残念なことにプレ・ミレの立場から論じているので、解決がない。
患難前携挙であろうが、患難後携挙であろうが、患難が未来にやってくるというスタンスそのものが間違っている。
黙示録19章までがすでに起こったことであると解釈しない限り、13章の「数字を読み解け」という命令を矛盾なく解決できません。
なぜならば、聖書解釈の原則は、「当時の直接の読者が読んで理解できないことは聖書に記されていない」ということだからです。
当時の読者は、紀元1世紀の人々です。
紀元1世紀の読者に対して「数字666を読み解け」と命令があったら、彼らが読み解くことができる人物でなければならない。
となると、その666なる人物は、当然当時の人物であるということになる。
だから、これを未来に登場する人物であると解釈するプレ・ミレそのものが間違っている。
プレ・ミレを離れない限り、ディスペンセーショナリズムの批判には意味がないです。
しかし、エスタブリッシュされた神学校では、このような大きな変換は大変難しいでしょう。せいぜい、神学者同士で互いに勲章を与え合うことしかできないでしょう。
互いに勲章を与え合っても、神学校に送る教会に人がいなくなれば、無意味なのです。
しかし、実際のところ、教会には人がいなくなっている。
当然でしょう。「まもなく大患難がやってきて、人類の3分の1が滅びる。今我々が築き上げるあらゆる文化的営為はことごとく破壊される」なんてメッセージを聞いてやる気がおきますか?プレ・ミレのメッセージは、「地を従えよ」という大文化命令への違反です。
プレ・ミレを捨てて、ポスト・ミレを採用するしか教会が生き残る方法はない。
なお、ディスペンセーショナリズムの批判は、すでに、O・T・アリスや、ローレイン・ベットナーが完膚なきまでに叩きのめしているので、この手の批判は日本では新しいものですが、米国では何十年も前に行われているもので、神学的に新しいものではない。
2010年6月7日
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