歴史を貫く2つの流れ2


今、朝のTVで占いが流れている。聞いて影響されたら困るので、すぐにチャンネルを変えることにしている。

占いは、非契約的宗教である。

それは、「神の命令や法に従わなくても幸せになれる」という思想に基づいている。

神と無関係な世界を築くことを目指しているので悪魔的なのだ。

「人間の自律」こそ占いのテーマであり、それは、エデンの園におけるサタンの誘惑である。

サタンは「神と無関係に生きても幸せになれますよ」と誘惑した。

占いがはびこる社会は、サタンの社会である。

それに対して、神的な社会は、「神の法に従うことによって幸せになれますよ」と主張する。

神はアダムに「私の命令に従え」といわれた。

また、モーセに「戒めを守れ。そうすれば幸せになれる」といわれた。

イエスは癒された病人にこう言われた。


その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」(ヨハネ5・14)

パウロはこう言った。

患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、
栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。(ローマ2・9-10)

しかし、今のキリスト教は、このような契約的因果律を教えない。

神の命令、神の法、神の契約を守れば、幸せになり、繁栄するとは教えない。

それは、逆にこう教える。

法は関係ない。我々は神の法から解放された。もう掟に縛られない。

今のキリスト教は、実質的に「イエス・キリストは、我々を契約的因果律から解放してくださった」と言っている。

お分かりだろうか。

つまり、キリスト教は、いつのまにかサタンの側に回っていたのだ。

この教えを推進したのが、ディスペンセーショナリズムである。

ディスペンセーショナリズムは、現代は恵みの時代で、神の法とは無関係だ、と教える。

神の法と無関係ならば、では、一体何が我々の幸不幸を決定しているのだろうか。

科学である。経営学である。呪術である。

教会は、神の法から引き離され、別の因果律につれていかれた。

クリスチャンは神の法と無関係に金儲けを始めた。

「預言」という名の占いに頼った。

「癒し」という名の呪術に頼った。

今流行の癒しの大会、預言の集会などは、外面的には聖書的のように見えて実際のところは、サタンの因果律に基づいている。

非契約的なのだ。

我々を支配している主な原理は、倫理的である。

神は、「神の法に従うか否か」で人への祝福を決定しておられる。

サタンはこの事実に人々が気づかないように、極悪人に富を与えたりする。不良芸能人に成功や幸せを与える。

サタンの惑わしに騙された人々は、「神の法に従うか否かよりも、汚いことでもしないと金儲けできない」と考える。

歴史を見なさい!契約的因果律を尊ぶ思想ほど豊かになった。

ユダヤ人は、外面的だが、戒律を守る。キリスト教の中でも、イギリスやアメリカ、スイスなど契約的因果律を説くカルヴァン主義の諸国が他の教派よりも経済的に豊かになった。

倫理が崩壊したローマは滅亡した。

この世界は、契約的因果律で動いている。

一見すると非契約的因果律で動いているように見える。だから、人々は占いに走ったり、あくどい金儲けに走る。

しかし、それは、悪魔の惑わしなのだ。悪を行っても繁栄するかのような人をモデルケースとして見せるのだ。

騙されてはならない。

我々の前には常に2つの選択がある。

「聖書的か、非聖書的か」。

「神の法にかなっているか、かなっていないか」。

常に神の法にかなっているほうを選択せよ。

そうすれば、豊かになる。短期的には逆のことが起きるかもしれない。しかし、そこは忍耐だ。神は忍耐して、執拗にこの因果律にこだわる人々に本当の成功を与えてくださる。

あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。(申命記5・32)

 

 

2009年8月24日

 

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