我々を原理主義だというので批判する人々へ
我々を、イスラム原理主義者やブッシュ大統領のキリスト教原理主義と同一の枠内にとらえて批判する無知蒙昧な輩が多い。
このような人間は、批判する相手を理解しようとしない。
ただ自分の思い描いた空想の敵を攻撃する「一人相撲」をやっているに過ぎない。
(1)
まず「原理主義」を悪と結びつけるという前提からして、批判が粗雑過ぎる。
キリスト教正統派はその誕生以来、いやさかのぼれば、旧約聖書の時代から、「原理主義」であった。
聖書に描かれたユダヤ国家は、原理主義であり、神は原理主義であることを求めた。
つまり、「聖書に記された、もしくは、預言者の口から出る神の意思を実現せよ」と神はイスラエルに命令され、真の信仰者はその命令に答えようとした。
批判者は、このような「教典や神の預言に忠実であろうとする態度」を批判する。
真性の宗教とは、ことごとく原理主義である。
教典を自分の上に置いて、それによって自分を戒めるのか、それとも、教典を自分の下に置いて、それを自分の理性によって修正するのか。
前者は原理主義、後者はヒューマニズム。
もし後者を主張するキリスト教があるとすれば、それは、もはやキリスト教ではない。
「聖書には誤りがあるから、我々の理性でそれを訂正しながら読まねばならない」というのは、結局、人間理性を主とするヒューマニズムであり、キリスト教ではない。
もし、人間の手を加えてもよい「神の言葉」があるとすれば、それはもはや「神の言葉」ではない。
神の言葉とは神聖不可侵である。
それをいじることは、タブーである。
原理主義反対者とは、このタブーを冒すことができると考える冒涜者である。
原理主義という理由で我々を批判するならば、その人は、正統派キリスト教とユダヤ教全体を批判することになるということを理解すべきだ。
(2)
イスラム原理主義はまちがっている。なぜならば、イスラム教は、聖書を否定し、イエス・キリストを単なる預言者の一人としてしか扱わないから。
キリスト教は、イエス・キリストを神であり人である唯一の救い主としてとらえるが、イスラム教はそのように見ない。
このようなイスラム教が原典であるコーランに忠実に社会形成をしようとするならば、当然誤謬を社会や政治において具現化するわけだから、悪魔的にならざるをえない。
ブッシュ大統領のような「クリスチャン・シオニズム」のキリスト教は、聖書に忠実ではないゆえに原理主義ではない。
クリスチャン・シオニズムは、聖書預言を曲解し、これから終末がやってきて、イスラエルが旧約時代の領土を回復し、世界を支配するというストーリーを描いているが、まったくの間違いである。
具体的な聖書個所については、このHPにおいて反論があるから参照してほしい。
聖書は、「イスラエルは世界を支配すべきだ」などとどこにおいても書いていない。そして、神の国は暴力を通じて広まるなどとどこにおいても書いていない。
ブッシュ大統領のキリスト教とは、原理主義ではなく、ヒューマニズムの一種である。
(3)
原理主義なるがゆえに我々を批判する人々は、よくその批判する対象である原理主義を理解してからにしたまえ。
「聖書に忠実になり、聖書に従って世界を統治する」ということが原理主義であり、ひどい誤謬であるならば、カルヴァンやピューリタンはひどい誤謬を犯したということになる。
彼らも聖書に忠実であることを求めた原理主義者であったので。
2007年4月22日
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