律法はいのちを与えないか?10-1


<LUKEさん>

Q.彼らは律法を全うしていたわけですか?
A.私は「NO」です。

<tomi>

旧約の民は、律法を完全に守り通すことまで求められていなかったのです。
それは、今日のクリスチャンと同じです。
完全に守り通す役割は、キリストにのみ与えられていた。

旧約の民とクリスチャンもどちらも「恵みの契約」の中にいて、彼らに与えられた責任とは、「完全に律法を全うしたキリストを信じること」です。

では、旧約の民やクリスチャンは、なぜ律法で裁かれたのか?と問われるかもしれません。

それは、「神の民としてふさわしい存在になる(聖くなる)ための試練」です。

神が聖であるのに、神の民が聖でないというのはおかしい。神の御心は、「私が聖であるように、あなたがたも聖になりなさい。」ということにあります。

「あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ11・44)

「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」(1ペテロ1・16)

旧約の民は、救われるために律法を守ったわけではなかったのです。もう救いの中に入っていたのですから。

彼らにとって救いの中に留まるために必要なのは、新約のクリスチャンと同様に、「悔い改めて立ち返る」ということだけです。それは、動物犠牲によって可能となった。

ただし、動物犠牲は本当に人間の罪を贖うことができないプラモデルのようなものでしかなく、欠陥があったので、キリストという本体を待ち望んでいた。

だから、旧約において本当に聖霊を受けていた人々は、本物の贖い主を待望していた。

「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(ヨブ19・25)

旧約の民は、律法を「永遠のいのちを得るためにではなく」全うした。

全うの方法は、「罪を犯したら悔い改めて立ち返ることによって」。

悔い改めず、立ちかえろうとしない者は、革命者であるから、民の中から「除名された」。(*)


(*)
信仰による義を象徴するアブラハム契約においても、アブラハムには完全な服従が要求されていました。

「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」(創世記17・1−2)

私たちは、「恵みの契約」なんだから、「完全さ」は不要なんではないか?と思われますが、そうではなく、神はアブラハムに「全き者」であれ、と命令された。

たしかに、恵みの契約に入るということは、「完全な義を自力で達成する」ということではない。

しかし、「神に対する完全な服従の姿勢」というものが要求されるのです。

つまり、常に神のほうに顔を向けて、罪を犯したら悔い改めて立ち返る。

「俺は、あなたの御心なんてどうでもいいんです。私は自分のやりたいことをやります。」というような人間は契約の中から追い出されるのです。

救われた者には、旧約の民、クリスチャンを問わず、「神の主権を認めて、法に服従する」という姿勢が要求されているのです。

モーセ律法でも、「律法への意図的な反抗」は、赦されません。

過失は赦されるが、故意の罪は赦されない。

もちろん弱さから来る「誘惑に負ける」というものには赦しがありますが、「開き直る」者には赦しはなかった。

 

 

2005年10月13日

 

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