理性を啓示に優先させてはならない


「三位がそれぞれ永遠であれば、永遠が複数あるのはおかしい。だから神の位格は複数あるはずはない」という論理は間違いである。

これは、「神は全能ではない。なぜならば、神は罪を犯せないからだ」とか「自殺できないからだ」という論理と似ている。

「全能」という言葉の定義を神から独立させているからだ。

「神の属性が全能」なのである。

何か他に全能の定義があって、それを神に適用しようとしてはならない。

なぜならば、神の前に基準は存在しなかったからである。神は無から世界を創造された。

だから、能力とか時間、美、善などの基準は神ご自身以外ではない。

ヒューマニズムは、人間が基準であり、人間が作り上げた概念を絶対とする。

その絶対の基準を神に適用して、「神は善か?」とか「神は美か?」とか「神は全能か?」とか「神は存在するか?」という質問をする。

神を裁くことは絶対にできない。

哲学における神は、聖書の神とまったく異なる。

哲学において、神はあたかもオーディション会場に現れて、人間の前で歌ったり踊ったりして評価を受ける人のようである。

普通哲学において、神は「満点者」である。天使はその次。それに続いて人間、動物、昆虫、・・・無生物と続く。

どんなに満点をつけられても神は「審査を受ける側」でしかない。

しかし、聖書において、審査を受けるのは、人間である。

神は審査員である。

我々はあまりにもヒューマニズムの思考になれてしまっているので、神を無意識のうちに評価する。

神を評価するのをやめなさい。

神は我々の審判者である。我々が評価されるのだ。

だから、「三位がそれぞれ永遠ならば、複数存在するのはおかしい」というような論理を捨てるべきだ。

「三位は永遠だ」と聖書が啓示しているならば、「三位を永遠の基準としよう」と考えるべきだ。

「父、子、聖霊はそれぞれ永遠だ」と啓示されているから、「父、子、聖霊はそれぞれ永遠だ」と結論しなさい。

それ以上考えると、どうしたって、「じゃあ、三位一体説は捨てる以外にはないな」という結論になる。

つまり、どうしたって、ユニテリアンになる。

神に関して、論理を啓示より優先させてはならない。

いや神に関してだけではなく、聖書に記されているあらゆることがらは、論理を超越している。

啓示は啓示としてそのまま受け入れる以外にはないのだ。

数学者とか科学者にユニテリアンが多いのは、聖書啓示をそのまま受け入れることができないからだ。

「父、子、聖霊にヒエラルキーがあるはずがない。神はお一人なのだから。」と考えるアタナシウスらは、聖書啓示を裁いている。

聖書啓示には、明らかにそのようなヒエラルキーがあるとあるのだから、「はい。分かりました。ヒエラルキーはあります。」でストップすべきだ。

真に謙遜になるということは、神の特別啓示を「いかに我々の頭で矛盾と思えても」そのまま受け入れることだ。

エデンの園において人間がサタンの罠にはまった真の原因は、「考えてはならないことを考えたからだ」。

「見るによく、食べるのによさそうだ」という理由で、「食べてはならない」という命令に違反した。

理性を啓示に優先させたことが堕落の第一歩だったことを我々は肝に銘じるべきである。

 

 

2008年10月26日

 

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