聖書の読み方等
新しい記事読みました
なるほど。
世界の歴史を7日間の拡大図として見ると
これからは最後の1000年に突入する時期であって、だからこそ悪魔が騒いで
悪魔的なことが増えているんですね。医療、教育、キリスト教、政治など
全ての分野で。
tomi:
そうですね。
最後のあがき。
tomi:
イスラエルは、完全に反キリストです。
メシアニック・ジューがありますが、メシアニック・ジューは、プレ・ミレです。
tomi:
メシアニック・ジューは、プレ・ミレですし、ディスペンセーショナリズムですから、本物のユダヤ系キリスト教とは正反対の要素を持っています。メシアニック・ジューは律法の部分では反対しています。
tomi:
律法の規定を守ることと、イエス・キリストの贖いは区別しているみたいです。
つまり、行為義認ではない。ただ、プレ・ミレが、それを否定する終末論ですから、矛盾しているわけです。
この点、メシアニック・ジューがプレ・ミレを捨てないとおかしい。これを訪問していたユダヤ人の一家に話したのですが、だめでした。
tomi:
聖書は、「すべてはキリストによって成就され、聖められた。だから、今はどこが聖地でいつが安息日かという区別はない」と教えています。
しかし、メシアニック・ジューは、ディスペンセーショナリズムであり、経綸が復活するという教えがあるので、この点が弱い。
もう一度、エルサレムに神殿が建設されるなんてことを信じている。
tomi:
そうです。
いきおい、旧約聖書の再現になっている。
そして、「ユダヤ人の選民性の復活」も。
だから、メシアニック・ジューのユダヤ人は傲慢の誘惑といつも戦わなければならない。
tomi:
そうです。ユダヤ教の延長的な部分がある。
「我々は、栽培種だ。おまえらは野生種だろう」みたいな。
読み方が完全に間違っている。
栽培種と野生種の区別は、「もともと聖書で訓練されていたから、クリスチャンになると異邦人よりも理解力が高い」という意味であって、クリスチャンの間に一級市民と二級市民があるわけではない。
これは、あたかも「僕はクリスチャンホームに育っているから、君たちよりも格が上だ」みたいな傲慢です。
クリスチャンホーム出身であろうがなかろうが、関係なく平等です。
tomi:
そうです。
経綸の区別はきわめて重大な問題です。
tomi:
シオニストたちは、イスラエルは、「アブラハムが約束された土地全体を回復すべきだ」と考えています。
これも、聖書の「旧約聖書はすべてキリストによって成就された」ということを理解していないから起こっています。
キリストは、アブラハムの約束の土地を回復された。
なぜならば、全地において私は主権を与えられたと宣言されたからです。
tomi:
そうです。これって、ロスチャイルドの考えなのです。
だから、プレ・ミレは、熱心党とつながっている。
ヨハネ・ヤコブ兄弟がそうであったように、ユダヤ人による世界統一を目指している。
武力によって世界を支配するという当時のユダヤ人の考えを、ロスチャイルドは踏襲している。
tomi:
この歴史観って、イエスのそれとまったく逆。
だから、クリスチャンシオニストたちは、メシアニック・ジューのユダヤ人といっしょになって、悪魔にしたがっている。
tomi:
おそろしいことです。神殿は、クリスチャンの体になったと宣言されている。
エルサレムに神殿ができると、動物犠牲を復活。祭司制度も復活。つまり、キリストの拒否。
プレ・ミレは、キリスト教の外貌を持ったサタン教です。
tomi:
ユダヤ人の基本には異邦人蔑視があります。それを満足させているので、偽善臭が伴います。
イエスがルカにおいて繰り返されたのは、「そういう傲慢はよくない。順序が逆になるぞ」ということでした。
だから、2000年間、異邦人に先を越された。
異邦人神学のほうがユダヤ人神学よりも圧倒的に優れている。
今のユダヤ人神学は、異邦人神学2000年の上に築き上げられている。
ディスペンセーショナリズムから脱却しない限り、同じような失敗は永遠に続けるでしょう。
ベニー・ヒン崇拝が、ユダヤ人崇拝に変わった。
「教えの波に翻弄されてはならない」
tomi:
そうです。
ディスペンセーショナリズムの基本には、「自分崇拝」がある。
カルヴァン主義に立つと、徹底して「神崇拝」しなければならない。
神崇拝から逃れるために、いろんな流行を取り入れる。
永遠に誤謬から逃れられない。
tomi:
そうです。「あなたは愛されるために生まれた」という文句がこの立場をよく表しています。
tomi:
ジョン・ウェスレー系統は、イエズス会と似ているので注意が必要です。
外貌は似ているが、「敬虔」が中心になっている。
つまり、「自分」がいつもスポットライトが当たるシステムなんです。
tomi:
そうです。イエズス会にとって殉教というものは、自己神化なのです。
「敬虔」のオンパレードで、いつのまにかイエス・キリストが消えてしまう。
ここに、ギリシアのストア派の禁欲主義→グノーシス→イグナチウス・デ・ロヨラ→イエズス会の流れを見る。
禁欲主義で火炎の中に飛び込む行者がいたが、自分を神とする願望がなせる業です。
tomi:
そのとおりです。
徳川は、秦です。
秦氏と八咫烏はいっしょだった。
だから、問題は、キリスト教にはなかった。
イエズス会に潜む悪魔性だった。
tomi:
まあ、無教会の問題は、きちんとした神学的指導がないままに、自分で歩み出してしまったというところでしょうか。
歴史を踏まえないで運動を始めるとこういうことになる、みたいな典型でしょう。
内村は天才でしたが、残念ながら神学の素養がなかった。
無教会の問題は、正しさを求めて、ギリシャに走ったというところです。
自然啓示を特別啓示よりも優先した。
tomi:
結局、自分の賢さにおぼれたのでしょう。この世の知者になって愚かになった。
<
tomi:
そうですね。ドーイウェールトも同じミスを犯した。
律法を捨てたところに原因がある。
西洋のキリスト教の弱さですね。
2010年9月5日
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