最も基本的なマインドコントロールとは?


オウムの事件以来、マインドコントロールという言葉が一般化した。

マインドコントロールを何か特別な宗教に専用の言葉と考えたら間違いだ。マインドコントロールは我々の周りに無数に存在する。

TVである日本人の食について研究している教授が、「我々はすでに味覚について洗脳されている」と述べていた。

アメリカは、日本人の味覚を変えて、米国産の農産物を消費するように操作しているというのだ。

事実、ある外食チェーン店のトップは、かつて「味覚は10代のはじめに決まるので、そのころにわが社の商品を食べさせ、日本人の味覚を変えてしまう」と公言していた。

捕鯨反対運動だって、日本人が鯨肉をやめてアメリカの牛肉を食べるようにするための戦略だという。

我々は知らず知らずのうちにマインドコントロールされているのだ。

マインドコントロールの中で最も基本的なものは、「人間理性こそ最終権威であり審判者である」という考えである。

デカルトは「我思うゆえに我あり」と言った。

「我々が当たり前だと信じていることは幻想かもしれない。しかし、今このように疑っている自分は確実に存在する。そうだ、この疑っている自分を認識の出発点にしよう!」

近代は、このように人間を認識の出発点にし、人間理性を最終権威とすえるマインドコントロールの中にはまりこんだ。

尺度になれるはずもない者が万物の尺度になった。

「科学的に証明されていない限り、私は信じない」と言うような人が現われた。

「科学的証明」が絶対だとどうして言えるのだろう?

科学は、絶対面した瞬間に、科学であることを止めるのに。

つねに「反証」を受け入れる余地を残すのが科学である。

近代の決定的な間違いは、「原理的に」基準や尺度になれない者が、基準や尺度になったところにある。

人間は有限な存在で、どんなに知識を広げたとしても、3億光年先の天体の地下数kmに何が存在するかを知ることは永遠にできないだろう。

いや、そもそも、我々が五感で知覚した情報に基づいて、対象を判断することの妥当性すら証明できない。

ある物体を見たとしても、どのように見えるかは人によって異なるかもしれない。自分には赤い色に見えても、他の人には黄色がかった赤に見えているかもしれない。どちらも「これは赤だ」と考えているが、その見え方は異なっているかもしれない。そして、どのように異なっているかは永遠に謎のままである。

我々は他人がどのように痛みを感じているか知らない。人それぞれによって、感じる痛みの強さが違うかもしれない。

人によって感じ方が異なるかもしれない、このような不確かな人間の感覚によって得られた知識が絶対であると考えることはできないのであるから、人間は永遠に尺度にはなれない。

もっと広げて言えば、この世界の「中に」存在するものは、互いに影響を与え合い、変化するので、尺度にはなれないのだ。たとえ尺度になったとしても、それは「相対的尺度」でしかない。

本当の尺度になれるのは、何からも影響を受けない絶対不動の超越者でなければならない。

しかも、それは創造者でなければならない。創造者とは、究極的な所有者である。所有者が所有物の意味を決定するのは当然である。

創造者・超越者でない限り、尺度や基準になってはならない。

近代人は、自分で勝手に作り上げた道徳基準や知識で聖書すらも評価してきた。

人間は、神をも裁くようになった。

これこそが根本的なマインドコントロールである。エデンの園においてエバが受けたのと同じ精神操作である。

このマインドコントロールを解かない限り、人類の問題に根本的な解決はない。

 

 

2004年9月23日

 

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