統一性と多様性の調和の基礎づけ


人間の思考を本当に首尾一貫させるには、キリスト教の神論を受け入れなければならない。

(1)統一性の基礎づけ

ヒューマニズム無神論に立つと、科学は成立しない。

なぜならば、この立場は、宇宙を創造されたものと見ないから。

そうすると、個物と個物を結びつける紐帯に正当性はまったくなくなる。

実験室で行った実験結果を総合して法則を導き出すことにまったく正当性はなくなる。

A、B、Cという現象が起きて、それらが自分が立てた仮説にたとえ合致するとしても、それはAとBとCに関する説とはなりえても、「あらゆる場合に」適用できる法則や説とはならない。

10000万回同じ結果が得られたとしても、10001回目にどうなるか証明できない。

普遍的法則を成立させるには「宇宙は統一的法則が通用する統一的世界である」という前提に立つ以外にはない。

ヒューマニズムなどの多神教では、個物や個別的現象を普遍化するいかなる正当性もない。

(2)多様性の基礎づけ

イスラム教などの一位一神教の場合、多様性は統一性に至る暫定的な過程でしかない。

多様性に究極的価値が置かれないので、多様性は常に統一性の下位に置かれる。

多様であるということは、常に統一に向かうようにプレッシャーをかけられる。

例えば、北朝鮮である。多様な考えをもつことはできない。あの国においてすべては金総書記への献身に位置付けられる。

金は農作物の植え方にまで口を出すという。

このような(実質的)一神教では、個性は死に、自由は消える。

政治的な自由は多様性に価値を置く考え方でなければならない。

しかし、多様性を多神教におくと、統一がないがしろにされ、アナキズムになる。

統一性と多様性が同時に並立する思想でない限り、自由と秩序を調和させることは不可能である。

(3)統一性と多様性の調和の基礎づけ

聖書の神は、三位一体の神である。存在論的に多の神は契約的に一である。

人間社会は、この「存在論的に多、契約的に一」の原則に基づいて成立している。

夫婦は存在論的には複数である。しかし、契約的に一人である。

会社は存在論的には複数である。しかし、契約的に一人である。

個人と社会の基礎を、三位一体の神に置かない限り、個人の自由は抑圧されるか放縦に陥り、社会はがんじがらめの専制か、無政府状態かのいずれに陥る。

具体的には、三位一体の原理に基づく聖書律法を社会に適用することである。

そうすれば、多様性と統一性のいずれにも正当性が与えられるので、自由かつ秩序の社会が登場する。

 

 

2008年7月12日

 

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