聖書は学問の領域に関して誤りがある?2
クリスチャンが学問に関して聖書よりも科学が正しいように思えるようになった大きな原因は、2つあると思う。
1.進化論
2.聖書の読み方の間違い
1については、このHPにおいて何度も触れた。
進化論は、素になって考えれば、とんでもないバカ学説であることが分かる。
仮に光合成が10億年かかって完成したならば、その10億年の間、現時点ではいかなるメリットも生み出さない「将来光合成を行うはずの器官」はどうして退化せず、いや、逆にシステムを一つ一つ組み立てていったのか。
この一つの質問で進化論は破壊できるほど幼稚な教えなのだ。
2については、クリスチャンの間にまだ理解されていない大きな間違いがる。
それは、「聖書の読み方」に関する間違いである。
聖書が科学的に当てにならないと感じるようになった原因は、「聖書を契約的文書として読まない」という間違いを犯したからである。
聖書を科学の教科書や論文として読む読み方をして「だから聖書は科学的ではない」「聖書は科学において権威ではない」という結論を出した。
しかし、聖書は、科学の教科書として書かれたものでも、論文としてかかれたものでもなく、その本旨は、「神と人間との契約的関係」にある。
だから、この本旨に沿って読むべきだ。
聖書は、神と人間との間にどのような関係があり、それゆえ人間の任務、責任、意味、未来、法、などは何かについて記してある書物だ。
だから、科学的厳密な記述は当然のことながら期待されていない。
例えば、小説や詩の中で「彼は水に飲み込まれた」という表現があったとしても、「それはおかしい。彼は水を飲んだが正しい」と言えないが、化学の論文の中で「彼は水に飲み込まれた」という表現はふさわしくないだろう。
聖書に対して、それが本来意図していない読み方をするならば、的外れになる。
例えば、聖書の中では、系図の世代数は、必ずしも正確ではない。
ある箇所と別の箇所で同じ系図が出てきて、その中で省かれている世代がある。
そのため、系図を元にして人類の誕生年代を遡及する方法は間違いだ。
聖書は歴史書や年代記ではない。
契約というテーマに沿って省略など、科学からすると様々な「不確か」な記述がある。
だからといって、聖書が間違いだとか、科学的に権威になれないということにはならない。
詩の中で「水が彼を飲み込んだ」という記述があるからといって、その詩が科学的に間違いといえないのと同じである。
聖書は、契約に関する書物であり、そのテーマに関して以外について厳密さを求めることはできない。
だから、我々は、各分野については、その分野ごとに知識を追求すべきなのだ。
大原則は聖書にある。しかし、細かな知識は記されていない。
化学の分野においては、化学的経験科学的認識論で研究を行うべきだろう。
しかし、大原則は侵してはならない。
化学や考古学の研究結果によって、聖書的契約関係、神と人間の契約、世界の成り立ち、創造、法、倫理、生きる意味・・・が侵害されてはならない。
もし生物学が、観察結果から進化を主張したならば、我々は、「聖書の大原則を侵すので受け入れられない」と退けるべきだ。
聖書を疑いの対象とすることは、臣下である人間には許されていない。
疑うことは、クーデターである。神への挑戦、下克上である。
神との主従関係を崩せば、それ以降の信仰生活は無意味である。
なぜならば偶像礼拝だから。自分を神とすることになるから。
結論:
クリスチャンとしてまともな信仰生活を送るには、聖書の正しい読み方つまり「契約的読み方」をマスターしなければならない。
それは、聖書を契約に関してのみ正確さを求め、それ以外については、主従原則を犯さない範囲においてそれぞれの分野の認識論を適用すべきだ。
2008年2月20日
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