二重契約説を否定するとクリスチャンには天の玉座に座る権利は失われる
<Sugi様>
---<説教抄録引用>---
「さらに悪いことに、恵みが彼を元の地位に回復するとき、彼は再び法的功績へと回復されることになるのだ。律法の概念をこれ以上深く歪め得るものを想像することは困難である。 」
---<説教抄録引用おわり>---
この発言の行き着く先には キリストの十字架の贖いの御わざの軽視(究極的には否定)があります。
そして、契約が三位一体の神よりも上位に位置する(契約は神の上位概念である/神が契約を規定するのではなくて契約が神を規定する)という危険な思想が見え隠れします。
<tomi>
まさにそのとおりですね。
スミスさんが、キリスト教の基本中の基本の考え方についてまったく間違った理解ををしているのはここで明らかです。
すでにこの場において、彼の論理矛盾についてたびたび指摘しました。
(1)もし、アダム契約が「恵みの契約」であるならば、なぜアダムが堕落したときに、被造物全体も堕落したのか。
「法的功績」を期待されていなかったとすれば、堕落も起こらなかったはずです。しかし、アダムも、エバも、被造世界全体も堕落したと聖書は証言している。
もちろん、「恵みの契約」の代表者は、キリストです。被造物が堕落したのは、キリストがアダムとともに堕落したからだ、ということに当然なります。
もうハチャメチャです。
(2)贖いにおいて、人間が法的功績へと回復されなかったとしたら、一体どのような根拠でクリスチャンは王であると、宣言されているのか。
聖書は、「キリストは、律法をすべて成就したので、王としての正当な資格を得た。それゆえ、キリストを信じる人々も彼とともに王である。」と主張しています。
「…キリストは人としての性質をもって現われ、…死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。<それゆえ>、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2・7-9)
「あわれみ豊かな神は、…私たちを…キリスト・イエスにおいて、…ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2・5-6)
ここにおいて分かるのは、「キリストが王となったのは、彼の服従による功績の獲得による」ということです。
つまり、キリストが神のテストに合格して功徳を積んだので、キリストは王になれた、ということです。
そして、その功徳を、クリスチャンにも分けてくださった。それゆえ、クリスチャンもキリストと一緒に王になれた、ということです。
もしキリストが功績を得ることができなければ、「天の所」に座ることができませんし、クリスチャンをもそこに座らせることはできなくなってしまいます。
スミス氏の考えによれば、人間がなぜ、キリストとともに天の玉座に座ることができたのか不明です。
法的功績への回復がなければ、罪人である人間が天の玉座に座るなんて絶対に不可能です。
たとえば、私たちが新幹線のグリーン車に座っているとします。車掌がやってきて、「切符を拝見します」と言ったときに、グリーン席の券を持っていれば、それを見せることによってそこにいつづけることができます。
しかし、持っていなければ自由席のほうに移動させられます。
クリスチャンが天の玉座に今座っていられるのは、「キリストが、天の玉座に座る権利を獲得してくださり、それを我々に与えてくださったから」です。
我々は、「法的功績」をキリストにおいてすでに得ているし、これからも永遠に得つづけるのです。
なぜならば、キリストは「律法をすでに成就された」からです。
キリストは「永遠の指定券」を得てくださった。この地位は絶対にゆるがない。キリストは十字架上で「完了した」と宣言されたからです。
キリストはこれ以上法的功績を積む必要はないし、我々も同じ。我々もキリストにあってすでに法的功績を積んだからです。
しかし、スミス氏の論理によれば、クリスチャンは「功績」という「法的根拠」なく、天の玉座に座ることになる。
これは、「恵み」の概念がよく分かっていないからです。
聖書において、「恵み」は常に「法的根拠」がある。
律法を守らなくても与えられる「王座」なんてものは存在しないのです。
もし、神が「ああ、堅いこと言わないから。そこに座っててもいいよ。」などというならば、神自身が「無律法者」です。
神が我々に玉座に座らせてくださっているのは、「キリストが守ったので、私は彼に玉座を与えた。おまえはキリストを信じて彼と一体であり、キリストにあって律法を守ったので、おまえも玉座に座る権利がある」という理由があるからです。
Sugi様が仰るように、スミス氏の論理でいけば、「キリストの十字架の贖いの御わざの軽視(究極的には否定)があります」。
2004年3月16日
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