開拓者精神こそクリスチャンの特徴である


自由と平等は両立できない。

自由があれば、平等は崩れる。なぜならば、個人個人、能力や努力において差があるからだ。

人間が個性的であればあるほど、差は広がる。

「え〜、じゃあ、tomiさんは、平等じゃなくてもいいっていうのですか?封建社会に逆戻りしろというのですか?」

ぜんぜん分かっていない。

頭が単純すぎる。こういう短絡的な結論の出し方をする人間は無教養だ。

我々は、平等を尊ぶべきだ。しかし、それは、スタートの平等であって、結果の平等ではない。

自由社会において、結果に差が出るのは当然である。能力に差はある。努力にも差がある。

差は悪ではない。

競争においてスタート地点を同じにすることにおいて社会は平等でなければならないが、ゴール地点において同じにすると、努力した人間はバカを見るということになり、社会は堕落する。

頑張った人間が腐ると、社会全員が頑張らなくなり、腐る。

社会を健全に保ちつつ自由を謳歌したいなら、

格・差・を・受・け・入・れ・な・さ・い!

自由社会は、必然的に格差社会だ。

もし格差を解消したいならば、自由をあきらめなければならない。

どっちも欲しいなんて、夢だ。

それゆえ、我々は、自由社会を望むならば、失敗を悪と見てはならない。

自由に伴うものは、失敗である。

だから、自由社会において無数の失敗者が生まれるのを見て、「やっぱりあの社会はダメな社会だ」というな。

ソ連では、テレビでアメリカの浮浪者の図が映されて、「資本主義国はだからダメだ」といっていた。

失敗者の存在は、自由社会の勲章である。

浮浪者がよいというのではない。(浮浪者の問題はいろんな原因があるので、別の機会に扱うことにする。)

オリンピック競技が面白いのは、勝者だけではなく、敗者がいるからだ。

敗者がいなければ勝者は生まれない。

社会を面白く、活気に溢れさせたいなら、自由にしたまえ。そして、勝者だけではなく、敗者も生まれることを前提とし、敗者になることを恥じない教育をして、子供達にチャンレンジすることを教えなさい。

日本人の親の間違っているところは、社会主義的な価値観を持っていて、チャレンジする人間よりも安定する人間を選択するところだ。

安定を望む心理は反キリストである。

バベルにおいて、人々は、冒険を嫌い、安定を得るために一つの町を築き、「散らばらないようにしよう」と言った。

神は、アダムに対して「地に満ちなさい」と命令された。

人間は、固まるのではなく、開拓者にならなければならない。

新しい領域を進んで開発し、新しい発見、新しい冒険に乗り出さねばならない。

開拓者ではないクリスチャンはありえない。

クリスチャンであるということは、失敗を恐れずに新しいことにチャレンジして、神の国の拡大のために働く人間だということだ。

だから、子供に安定と保全と安寧だけを求める親、官僚主義的、権威主義的な親は、子供の教育において決定的に失敗している。

クリスチャンは、保守的な部分と革新的な部分とをバランスよく保つべきだ。

保守的な部分とは、聖書信仰である。御言葉を疑わない。土台を崩さない、これに固執する。そういった心がけは必須である。

革新的な部分とは、この確固とした信仰に基づいて、新しい領域にチャレンジすることだ。

主人に叱責された悪い僕は、預けられ、商売するように命令されていたお金を畑の中に埋めておいた。

チャレンジを恐れる心、これこそ反キリストの心である。

格差社会への敵意とは、反キリストの心から生まれる。

 

 

2008年2月18日

 

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