契約神学の考え方


神と人間は、エデンの園において、契約を結びました(ホセア6・7)。

聖書契約の構造から分かるように、契約には必ず律法が含まれていますので、そこには律法が存在しました。

それは、「善悪の知識の木からとって食べてはならない」という法でした。

アダムは、聖霊を与えられていたので(創世記2・7)、聖霊の力によって法を守る力がありました。

しかし、アダムはその自由意思により、法を破りました。その結果は、永遠のいのちの相続者としての立場の喪失と、聖霊の喪失でした。

このアダム契約は、「わざの契約」でした。つまり、それを守ることによって永遠のいのちが与えられ、それを破ることによって永遠のいのちを失うという契約です。

神は、わざの契約が破棄されたため、人間との間に代償的契約を結ばれました。これを恵みの契約といいます。

その最初が、原福音と呼ばれるもので、動物の毛皮をアダムとエバに着せたということです(創世記3・21)。

2人には、代償者によるサタンへの勝利が約束されました(創世記3・15)。

ここから、後の契約はすべて、ことごとく、恵みの契約です。アブラハム契約はもとより、モーセ契約も「恵みの契約」だったのです。図示すると:

わざの契約:アダム契約

恵みの契約:原福音−アブラハム契約−モーセ契約−ダビデ契約−キリスト契約

O.P.RobertsonのChrist of the Covenant(P&R)によると、この恵みの契約は、時代が経つにつれて、内容が充実し、キリストの啓示(つまり、真の贖い主がどのような方かに関する啓示)が進んでいきます。

わざの契約において、律法を守る責任は、アダムにありました。恵みの契約において、律法を守る責任は、キリストにありました。

キリストは、我々の身代わりに律法の要求をすべて満たし成就されたので、キリストには褒賞として永遠のいのちが与えられました。

もちろん、キリストには聖霊が際限なく与えられていたので、彼は聖霊によって完全な行いをされました。

アダムの子孫であるノンクリスチャンは、わざの契約の中にいますので、生まれながらに失敗者であり、クリスチャンにならない限り、永遠のいのちの相続にあずかることはできず、むしろ、その罪のゆえに永遠の滅びの中に入れられます。

恵みの契約に属する人々、つまり、旧約聖書のユダヤ人と、新約聖書のクリスチャンたちは、キリストの完全な行いとその褒賞に与る権利が与えられ、それゆえ、永遠のいのちと報いに与ることができます。

モーセ律法は、恵みの契約の一部として与えられていたので、それは「いのちの法」でした。

神のいのちに与る道(永遠の命を達成するための道ではなく、豊かな祝福された生活への道)がそこには示されていました。また、罪を犯したときの契約のメンバーとしての身分回復の方法も指示されていました。それは、動物犠牲でした。

旧約聖書のユダヤ人も、聖霊によって律法を守っていました。彼らも聖霊を受けていました。

なぜならば、神の真理を悟っていたからです。神の真理を悟る力は聖霊による以外に不可能です。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2・14)

聖霊によらなければ、旧約聖書すら読めない。旧約の民が旧約聖書を読んで理解していた以上、彼らにも聖霊が与えられており、その聖霊によって律法に従った生活をしていたということが分かります。

旧約の民も新約の民も、聖霊という原動力によって律法を守る民だったのです。

聖霊による律法遵守を新約聖書にだけ帰することはできません。

 

 

2005年10月13日

 

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