建設的無関心のススメ


クリスチャンになるとしばしば体験する訓練は、「所有の法則」の訓練です。

所有の法則とは、ものを所有する場合に、手を開いて握るのです。

つまり、いつでも主におささげしますという気持ちです。

聖書に「自分のいのちを救おうとするものは、それを失い、それを失うものはそれを得る」という言葉があります。

完全献身します、という気持ちでいれば、いずれ何らかの形で祝福として返ってきます。

自分が大切に思うものを握り締めると、へんなことになります。

握らないで手を開いたまま所有する訓練をつまねばならない。

神様は、私たちをさらに次元の高い祝福にあずからせるために、学校に入れてくださる。

それは、具体的物質的な学校ではなく、何らかの試練です。

試練に遭うのは、私たちが成長するためです。試練の後は、必ず祝福されます。以前よりも大きな祝福にあずかります。

悪魔は私たちに絶対に勝てません。

私の場合、そういうことはすぐにおきます。何かおかしい人と出会ったり、おかしな店に出会ったりすることがあります。

1年前、非常に無礼な対応の店の従業員についてクレームを入れたところ、「そんなこと言うならこなくていいよ」と店長が言いました。「あ、聞く耳をまったく持たない。これはもはや私の手に負えないな」と判断したので、主に委ねました。そうしたら、その直後に火災が発生し、営業停止になりました。

人間的な手段を尽くす必要はあると思います。しかし、自分の手に負えないと判断したら、放置して祈ることです。

すると、自滅します。神にバトンタッチしたからです。神は「任せなさい」といわれて、超自然的に働いて悪魔の勢力に裁きを下されます。

だから、大丈夫です。「労苦はその日で十分だ。明日のことは明日が心配する」とイエスは言われたのは、こういうクリスチャンの「建設的無関心」を勧められたのです。

人間的な手を尽くしたら委ねること。それ以上をやると、たとえば、「あいつを徹底して叩きのめしてやる」などということまですると、神の領域を侵すことになり、かえって逆効果になります。

私たちがなすべきは、泣き寝入りすることではありません。何も文句を言わないことではない。クレームを言うべきです。正当な手段を講じるべきです。

それでもだめなら、もはや問題は私たちの手を離れたのです。

神に委ねて「結果は神にお委ねします」と祈ってください。

 

 

20010年1月17日

 

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