聖書における山の意味
なぜイエスは祈る際に山に登られたのか。
神に近いからだ。
山という存在そのものが神聖だとかという意味ではなく、聖書の世界観では、山は一番神に近いことの象徴なのである。
モーセが律法を受けたのも山。
イエスが新しい律法を授与されたのも山の上からであった(マタイ5章)。
海は滅びの象徴である。海そのものが悪いとかマイナスのイメージがあるというわけではない。すべては神にあって聖いのである。
ただここでは象徴を語っているのだ。
海は、人が存在できない場所。ノアの洪水で人々が滅んだところ。
つねに動き、落ち着かない。不安定。これは異邦人の象徴でもある。
それに対して、陸、岩、大地は、救いの象徴である。
救いの岩という表現がよく出てくる。
ヨナは、大魚の腹の中にいて、陸に吐き出された。イエス・キリストの復活の予型である。
陸は、救いの世界。契約の世界。海は滅びの世界、契約外の世界。
以前も述べたように、陸には3段階があった。
陸→エデン→園。
救いの秩序は3段階である。
エデンの園は、山の中腹にあったと考えられる。水が園を潤し、それが4つの川となって出ていたとあるので。
不思議なことに神社は山の中腹に建てられることが多い。
そして湧き水や清水が近くに流れ、あたかも神社から出ているようになっている。
エデンの園の象徴と同じである。
山の頂上は、神のおられる場所。そこから恵みの水が流れ、中腹にあるエデンの園に流れ込む。
これは、クリスチャンの使命を象徴している。
クリスチャンは自分で祝福の水を作り出すことはできない。
神から与えられる必要がある。
そして、クリスチャンは自分が受けた水を下流の人々に流さねばならない。
エデンの園から4つの川が出ていたことは、世界の人々を祝福することを意味する。
4は聖書において地の四方を意味するからだ。
アブラハムに対して神は「あなたの子孫を通じて地のすべての民族が祝福される」と言われた。
実際、イエス・キリストを通じて全世界の人々が祝福された。
しかし、イスラエルはイエス・キリストを捨てて悪魔に従ったため、滅ぼされ、その子孫であるユダヤ人は悪いことをしている。
逆の働きをするようになった。
しかし、彼らも選びの民であるから、いずれ回復するだろう。
新約時代において、クリスチャンが新しいイスラエル(ユダヤ人クリスチャンも含む)である。
もはや民族的な経綸ではない。あらゆる国籍、民族の人々が、クリスチャンとなり、エデンの園となった。
そこから祝福の水が周囲に流れる。
さて、古い神社、たとえば、かつての出雲大社は、非常に高い建築物であったようだ。エデンの園を表現しているのだろう。
しかも柱が3本を一つにまとめた形になっている。神道において柱は神を象徴する。まさに、聖書の中心的モチーフ、三位一体が表現されている。
エデンの園と三位一体、これで神道が聖書と無関係だなどともはや誰も考えられないだろう。
2010年2月22日
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