狭い門2
我々の活動に賛同し、何かを始める場合に、最初に抵抗があるだろう。
どこかから文句をつけられたり、教会で拒絶されたり。
それは、霊的な世界が変化する場合に必ずあることだ。
それは、悪霊の世界でもある。
つのだじろうという心霊研究家兼漫画家がいる。
高校時代彼の漫画を読んでいた。
彼が、漫画雑誌のインタビューで「心霊研究をするとはじめはすごい抵抗にあう」と言っていた。
しかしその抵抗にめげずに続けていくと、楽になるといった。
おそらく、霊的世界は門というものを大切にするのだろう。
あのスフィンクスのように、謎かけをして、門から入るものを厳しく選別する。
違う霊界に入ることには必ず試練が伴う。
だから、この働きをしていると出鼻で退散する人々をたくさん見る。
こちら側に入ろうとすると、最初に変なことが起きる。
突然、奥さんの親ががみがみ言い出したり、配偶者に離縁すると脅かされたり。
びっくりして「これはやばいことになりそうだ」と考える人は、退散する。
だから、先日まで非常に好意的だった人が手のひらを返したように敵対的になるなんていうことは頻繁にあった。
だから、私はもう慣れっこになった。人には期待しない。
選ばれている人しか残らない。
「我が家は、全員、この運動にかけることにしました!」と勢いよく言ってきた人もいた。しかし、ちょっとしたことでつまずいた。
音信不通である。
本物なら、あらゆる困難を乗り越えてこの働きにまい進するだろう。
それができないというのは、選ばれていなかったのだ。
犠牲を払いたくない人は人生のいかなる働きもできない。
尊い働きには絶対に捨てなければならないものがある。
捨てないで実りの多い人生を送りたいなんて不可能だ。
何かを犠牲にしなければならない。
何かの傷を負わねばならない。
我々は所有している一番大切なものを捧げることすら求められるだろう。
アブラハムは、一人息子イサクを捧げよと命令された。
命令にしたがって刀を取って殺そうとした瞬間に、御使いがストップをかけた。犠牲の山羊が用意してあった。
主の山に備えあり。
「クリスチャンになりました。恵みを受けたいです。しかし、失いたくありません。」ということは絶対にない。
クリスチャンになったら捧げる人生に入ったということ。
なぜ今のクリスチャンが我々の活動に入りたがらないか?
それは、一言で説明できる。
「古い人間関係を失いたくないから」。
入るときに、神に審査される。
迫害があるかもしれない。何か驚くようなことがあるかもしれない。
そのときに、直感で分かる。
「これに関わると、今までの生活もできなくなる」と。
結局、そういうクリスチャンというのは、クリスチャンであることそのものが崩壊しているのだ。
すべてを捨てて十字架をおって私についてきなさい、といわれた主の命令を捨てているので、クリスチャンとしてすでに失格。
だから、そういう人は我々の仲間にはいない。
我々は広く招く。誰でも歓迎する。
しかし、神は入る際に必ずチェックをされる。
神はさらに深い聖書理解に入る場合に、それに値するか必ず試される。
それに合格した人だけが入ることができる。
2009年12月1日
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