神や聖書を証明しようとしてはならない


神を証明しようとやっきになっているアメリカ人クリスチャンをよく見かけるが、神を証明することは絶対にできないし、してはならない。

聖書が正しいかどうかを証明することもしてはならない。

なぜならば、証明された神は神ではないから。

まず疑いから出発することそのものが冒涜である。

「俺が確認してやる」という態度そのものが冒涜であり、自らを神とする態度である。

彼がたとえ神存在を確認したとしても、その神とは、「彼によるお墨付きの神」である。

彼は神に対して証明書を発行する。

「右の者の存在を認める。○○」

そしてハンコを押す。

こんなばかげたことがあるだろうか。主権者を被主権者が認め、証明書を発行するなどという。

神と聖書に関して、人間は、絶対に上に立てない。

上に立った瞬間に彼は神の主人になった。

神の主人となることは、概念上あり得ないので、「神を証明したこと」そのものが妄想なのである。

神と聖書は、「文句を言わずに認めること以外に人間に選択肢はない」。

証明しようとするのではなく、ただひたすら頭を下げながら認めるのである。

「え〜、そんなの無茶です。何も証拠がなければ分からないじゃないですか。」

いや。こういう人は、ウソをついている。

神は万人が認めることができるものである。

なぜならば、人間は「神を認めることができるように創造されているから」。

人間は不可避的に神を知っている。神を消そうとしても、消すことができない。どんな悪人でも神を概念からかき消すことは絶対にできない。

なぜならば、そのように造られているから。

製造業者が、製品に製造番号と社名を刻印するように、人間には神の印が深く刻まれている。

たとえ四肢を失っても、神への意識を消すことは絶対にできない。

無神論者は、嘘つきであり、自分を騙している。心の奥底で神を知っているので、彼らは嘘つき特有の表情をする。

無神論者で一生を終わる人は、一生をウソと騙しで過ごした人である。

一生を演技で切り抜けた人である。

神存在及び聖書信仰は、人間にとって前提条件であり、我々は人々に接する際に、神や聖書を証明することから出発してはならない。

証明しようとすることは、神や聖書を安売りすることであり、冒涜である。

 

 

2008年4月12日

 

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