キリストにおいて永遠のいのちを受ける
もともとアダムは、自力で永遠の命を達成できるはずだった。
神の命令を完全に守り通すことによって。
だから、原初の創造世界は、完全には造られていたが、「栄光化」されているわけではなかった。
「栄光化」は、アダムによって達成されるはずだった。
アダムに連なるその子孫、つまり我々全員は、もしアダムが成功していれば、もはや堕落することがない永遠のからだを与えられて生まれてくるはずだったろう。
それは、生まれてきたときにその体が与えられたというのではなく、この血肉の体が生涯の間であるときに切り替わって御霊の体に変わるようなそういう体として生まれてきたはずだ。
つまり、生まれながらにクリスチャンであり、回心の必要がない状態で生まれてきたはずだ。
しかし、アダムが堕落したため、生まれながらの人間は罪人となった。罪を持って生まれてくるようになった。
だから我々は生まれながらに神の敵であり、神を憎む心をもって生まれてくる。
被造物はアダムと連続していた。
なぜならば、アダムは地のちりから造られたからだ。
大地とアダムは兄弟であった。
それゆえ、アダムが堕落したときに、大地も堕落した。
いばらが生じるようになった。つまり、生産性が極端に落ちた。
アダムは、人間と被造物をすべて栄光化する責任があった。
アダムが神の命令を守り、従順を貫けば、神は「いのちの木」から取って食べることができたはずだ。
この「いのちの木」とは、永遠の生命を意味する。
つまり、アダムはテストの合格すれば、永遠の生命を得て、その子孫も生まれながらに永遠の生命を持ち、被造物も永遠の生命を持つはずだった。
しかし、失敗したので、永遠の死を相続するようになった。
我々は生まれながらの状態であれば、永遠の死を経験する。
それは、永遠の刑罰である。
だから、キリストが誕生しなければならなかった。
キリストは、人類と被造物全部を栄光化する責任を負って生まれてこられた。
キリストは、処女マリアから生まれたため、アダム族ではない。
アダムとの血縁はない。神はマリアの胎内にまったく新しい創造による胚を植えつけられた。
それゆえ、キリストはアダムの堕落の影響の下にはなかった。
キリストは律法を完全に守り通された。それゆえ、彼は「いのちの木」から取って食べることを許された。
それゆえ、彼は復活された。
復活とは、いのちの木からとって食べ、永遠の命を受けたことを意味する。
だから、今もキリストは体を持って生きておられる。
キリストのこの永遠の命を我々も受けることができる。
それは、信仰によってである。
信仰によって、我々はキリストにつながれる。
これは、契約的接続だ。キリストの体である教会の一員となる。
つまり、細胞になる。我々一人一人はいまやキリストの細胞である。
だから、キリストとともに我々も永遠の命を持っている。
我々はもはやアダム族ではなく、キリスト族である。
信仰を告白し、バプテスマを受けてほしい。
そうすれば、我々はキリスト族になれる。
キリストが新しい創造として誕生されたように、我々も新しい創造になる。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5・17)
まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。(ヨハネ8・51)
2009年12月17日
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