クリスチャンは現実的であると同時に現実的であってはならない
今、現実主義を誤解している人々が多い。
我々クリスチャンは、現実的でなければならない。嘘を信じてはならない。現実をよく把握し、妄想に基づいて生活してはならない。
しかし、あまりにも現実的になって、聖書まで疑いだしたら、逆効果である。
クリスチャンの現実主義とは、聖書を超えない。聖書が述べていることを疑いだしたら、逆にサタンに騙される。
我々は、聖書が述べている楽観主義を受け入れなければならない。
よくディスペンセーショナリストたちは、ポスト・ミレに向かって「これから世界がよくなる?笑わせないでよ。現実を見なさい!」という。
現実と聖書とどちらを信頼するのか?
聖書ははっきりと「世界は徐々にキリストの手に入っている」と教えている。
サタンは、我々に「現実を見なさい」と教えてくるのだ。
そして、それにまんまとひっかかると、我々は、信仰の力を失う。
祈りが聞かれなくなる。祈りが聞かれるための土台は信仰である。
信仰がないのに祈りが聞かれることを求めるのはむしが良すぎる。
聖書が述べているのは、「我々は王である」ということだ。
クリスチャンは王なのだ。
だから、我々が何か陰謀なり、世界の背後に働くサタンの力を知ったならば、我々はそれを粉砕し、その計画を頓挫させることができると考えなければならない。
数が少ない?
数は関係ない。ヨシュアは、2人だけで数万人の人と戦って勝った。
ダビデは一人でペリシテ人と戦って勝った。
神の力が働くときに、我々は一人一人ヨシュアやダビデとなる。
だから、敵の策謀を粉砕できる。
大切なのは、疑わない心だ。御言葉を見て、現実を見ない。
「義人は信仰によって生きる」のだ。
とにかく祈ってほしい。
サバタイ・フランキスト派の人々による世界征服の野望が頓挫し、彼らのもっているすべての富が、勤労者のもとに公平に分配されるように。
2009年2月23日
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