クリスチャン同士の争いを世俗の裁判所で解決しようとする人々



あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。(1コリント6・1)

なんだか、クリスチャンがクリスチャンを裁判で訴えている例が増えたが、嘆かわしいことだ。

裁判を求めるということ、つまり、「裁いてください」という要請は自分の支配者に対するものである。

つまり、裁きを求めることによって、その人は、「相手は自分より上位だ」「相手は私の支配者だ」と認めているということだ。

聖書でなんと述べているか。

「クリスチャンこそ支配者だ」と。

クリスチャン同士の係争を世俗の裁判所に解決してもらおうとすることは、クリスチャン自身が「私は王ではなく、権威でもありません」と告白することであり、それはひいては、「キリストは王ではありません」と告白することに等しい。

クリスチャンがクリスチャンを裁判所に裁いてもらう動機の背後には、ディスペンセーショナリズムがある。

ディスペンセーショナリズムでは、この世界においてクリスチャンは王ではない。

クリスチャンが王になるのは、千年王国が到来してからだ。

今の世界、つまり、キリストが再臨される前の時代である今の世界においてクリスチャンは王ではなく、世俗の政府が王だ。

学的権威を文部省に求める姿勢も同じ。

今のクリスチャンが、文部省の認可団体の学位でなければ意味がない、となぜ考えるかというと、「クリスチャンは王ではなく、この世の世俗の学的団体、国、政府が王である」と考えているから。

つまり、信仰が欠落しているのだ。

クリスチャンとノンクリスチャンの係争の場合、ノンクリスチャンはクリスチャンを王として認めていないのだから、世俗の裁判で解決するというのは理解できる。

しかし、クリスチャンとクリスチャンの場合は、どちらもキリストを信じており、キリストから「あなたがたは王なる祭司だ」と宣言されているのである。

どうして、王同士が、自分よりも下位のものに裁いてもらおうとするのだろうか。

「いや〜。クリスチャン同士の裁判(たとえば、教会裁判)だと拘束力がないでしょう」と??

拘束力って、神の裁きじゃ物足りないの?

相手が頑固として罪を認めない場合には、放置したらいいんですよ。神の裁きが下るから。

パウロは「むしろ、なぜ騙されていないのか」とすら述べた。

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。(1コリント6・7)

クリスチャンが他のクリスチャンから誹謗中傷され、どんなに努力してもその罪を相手が認めようとしない場合、人事を尽くしたのだから、あとは神に任せて、放置したらいいんです。

そして、それでこちらが名誉を毀損され社会的に不利益をこうむっても、それはそれで意味がある。聖書に従ったのだから、それを補って余りある祝福は後からやってくる。

クリスチャン同士が世俗の裁判所に訴え合う姿は、世の人々に対する悪い証だ。自分たちの無能さをさらけ出している。

自分のことも裁けないような人々の信じている神様にどうして人々が引かれるのでしょうか?

 

 

2009年8月21日

 

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