祈りの効果を実験科学的に調べることは冒涜である2


私は、疑うことをすべて否定しているのではない。

神に関する事柄について疑うことは冒涜である、と述べているのである。

聖書が啓示し、教えていることに関して疑うことは冒涜である。

神は存在するのか?神の言葉は無誤無謬か?神は世界の主権者か?イエスは処女降誕で生まれたのか?奇跡はあったのか?祈りは聞かれるのか?人は信仰によって救われるのか?復活はあったのか?・・・

こういう聖書が明確に教えていることに関して疑うことは、根本的な罪であり、冒涜である。

だから、科学はこれらのテーマについて経験主義的、実験主義的に調査してはならない。

なぜならば、経験主義的な調査は、帰納法的な調査の方法であり、疑いから出発するからである。

経験科学は、ドグマから出発するのではなく、データを集めて観察する。何らかのドグマ、たとえば、それまでの確立された学説があったとしても、それを絶対不変としない。だから、経験科学は、疑いから出発するのである。

しかし、聖書の啓示・教義に関してこの方法を取ることは、神を疑い、神を試すことなので、「被造物の身分である人間には許されていない」。

聖書の教義に関して実験観察の手法によって知識を得ようとすることは、神に対する疑い、御言葉に対する不信を前提としている知識の方法であり、それゆえ、サタン的である。

サタンは、エデンの園においてエバに対して「神は本当にこの実を食べてはならないと言われたのですか?」と尋ねた。

神の御言葉を疑いの対象とするのは、サタンの常套手段である。自由主義神学は、このわなにはまった。バルト神学は一見すると正統神学への回帰であるように見えるが、実際は、自由主義神学への回帰であった。

神の御言葉は前提以外の何物にもなれない。それは、疑いの対象にならない。

神の啓示には2種類ある。特殊啓示と自然啓示である。自然や人間社会を通じじて神が啓示されるものについては、経験科学が可能である。自然に働く法則や社会に働く法則に関して、疑いから出発し、データを集め、観察し、法則を作り、実験によって確認するという手法は許される。

しかし、特殊啓示に関しては、実験観察は許されない。これに関しては演繹法的な認識論を適用しなければならない。つまり、まず「神の御言葉は絶対的に正しい」という前提から出発しなければならない。

もし、この方法を捨てるならば、つまり、聖書啓示を疑うならば、際限のない疑念の中に落ち込み、結局、啓示宗教は崩壊する。

たとえば、聖書のある個所を真性の神の言葉とし、ある個所を教会の加筆と考えることができるならば、それを判断する人の主観によって、聖書の内容が変わるということになる。

妊娠中絶賛成論者の聖書は、妊娠した女性に突き当たり、流産した場合、突き当たった人間は殺人罪に当たる、という申命記の律法が「後代の加筆」と判断され、その個所をはさみで切り取った聖書になる。

つまり、人それぞれ異なる聖書を持つということになる。そして、実質的にこのような宗教は啓示宗教ではなく、人造宗教ということになってしまうのである。

だから、キリスト教が立つか倒れるかは、聖書に対する絶対的な信仰にかかっているのである。無誤無謬説を取らない立場はすべてキリスト教の破壊者であり、それゆえ、異端である。

我々は、経験科学の認識論を聖書に適用してはならないのである。

 

 

2006年4月2日

 

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