どうして今の聖書が聖書と言えるのか?


1、パウロは12弟子ではないのに、どうして「使徒パウロ」と言えるのですか?


パウロは直接主にダマスコの途上で任命されたからです。そして、使徒たちも、この出来事を認め、パウロを使徒と認めたからです。

2、新約聖書の中で使徒じゃない人が書いた書物はどうして権威があるのですか?
(ルカ・ヤコブ・パウロなど)

ルカは、使徒の権威のもとで書いたことが明らかです。

「わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。」(福音書)

ヤコブは十二使徒には含まれていませんが、パウロが『ガラテヤの信徒への手紙』で「主の兄弟」(1:19)、「教会の三人の柱の一人」(2:9)として言及する人物であると考えられ、それゆえ、使徒の権威のもとにいたことが考えられるからです。

3、宗派によって聖書の巻数に違いがあります。
その中でプロテスタントが信じている66巻が唯一神の霊感によって歴史のなかで守られてきたとどうして言えるのですか?そんなことを言うとカトリックの方は「我々は66巻ではありませんが、我々の持っている聖書が正しい。プロテスタントの方は正しい聖書の中から削って66巻にしたのです」と言うのではないでしょうか?
4、そういう場合どのようにして67巻や68巻ではなく66巻だけと言えるのでしょうか?
5、カトリックや東方教会などの66巻以上または以下を聖典とする人たちに対してどういうわけで正しくないと言えるのでしょうか?

ヘブライ語聖書正典に外典が付け加えられたのは七十人訳聖書(旧約ヘブライ語聖書のギリシャ語訳)によります。この時、外典は正典と区別されていました。新約聖書記者も外典から引用しておらず、聖書の内的証明が欠如しています。

ローマ・カトリックはヴルガータに含まれたものが聖書だと主張しましたが、宗教改革者はヘブライ語聖書に含まれているもののみが旧約聖書である、と主張しました。

1546年、ローマ・カトリックはトレント公会議で旧約聖書と外典の区別を取り除き、それまでキリスト教会は39巻の旧約聖書を正典としていたが、ローマ・カトリックは聖書に裏づけの無い煉獄等の教理を裏付けるために、トリエント公会議で聖書正典に外典を付け足しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/外典

6、何を基準にして聖典と偽典を見分けるのでしょうか?(旧新約あわせての意味です)

イエスが聖書として認めていた当時の聖書とは、今我々が持っている旧約聖書と同じです。

そして、その旧約聖書が、イエスを証言している。イエスは旧約聖書の預言のとおり、御業を行って犠牲となられ死に、復活されました。

そして、旧約聖書によって証言されたイエスご自身が使徒を任命され、使徒及び使徒の権威の下にいる人々が使徒の権威のもとで聖書を記しました。

そのような権威を帯びているものだけが聖書であり、イエスが認めていなかった外典や偽典は排除すべきです。

 

 

2009年8月17日

 

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