クリスチャンは学問に限界を設定しなければならない2


「科学よりも聖書を優先する」という原則を説くと、

「それは、盲信ではないですか?」という人がいる。

まったく分かっていない。

神を疑い、神の言葉を疑うということは、自己矛盾なのだ。

神よりも高い存在はこの世に存在しないという信仰を持ちながら、神を疑うということは矛盾以外の何物でもない。

それはあたかも「世界一高い山よりも高い山に登りたい」と頑張っている登山家に似ている。永久にできない。

聖書を疑うことは、「絶対的権威を超えようとすること」であるから、越えたと思った瞬間に実は自分を騙すことになるのだ。

世界一の山よりも高い山に登ったと叫んだ瞬間から、その登山家が自分を騙し始めるのと同じだ。

彼が自分の間違いを認めない限り、彼は自分に対してウソをつきつづける。

聖書を疑う人々もまったく同じことをしている。

クリスチャンと自称しながら、神を疑っている自分に気づいている。

聖書を疑うことは、生活の破壊に直結する。

なぜならば、聖書は土台として人間に与えられたものだから。

それは、参考書としてではなく、権威として与えられた。

権威として与えられたものを、参考書に落としたのが近代のキリスト教だ。

では彼らにとって権威は何になったのか。

「自我」だ。

彼らは、ノンクリスチャンの認識論の原理を取り入れた。つまり、「我思うゆえに我あり」の原理だ。

疑っている自分の存在は確実だ、だから、この疑っている自分を認識の出発点にしようというのが自我中心のヒューマニズム認識論だ。

デカルト以来、人間にとって究極的権威は、人間になった。

そして、神や聖書をも裁く権限を自らに付与した。

そして、この権威の体系を受け入れない我々を「盲信者」とか「狂信者」と呼ぶ。

実は、自分がそれであるのにもかかわらず。

さあ、今、世界には2つの体系がある。

「人間を権威とする体系」と「神を権威とする体系」。

どちらが権威としてふさわしいか。

一方は、「我々は、世界を創造した者ではないが、しかし、世界を解釈する究極的権威を持っている」と主張し、

他方は、「神は、世界を創造した者ではあるから、世界を解釈する究極的権威を持っている」と主張する。

どちらが論理的か。

誤解してはならない。ヒューマニズムは、非合理主義なのだ。

学校で教えられているのとは、事実はまったく逆なのだ。

キリスト教のほうが、論理的で合理的なのだ。

 

 

2008年2月21日

 

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