性同一性障害について


<H>
1.「性同一性障害者の性転換手術は許されるし、これによって聖書でいう同性愛には
当たらなくなる」というような主張が出て来るのは、教会が聖書律法をしっかりと教
えてこなかったことに原因があるのではないかと思うのです。
神の基準によると同性愛は極刑をもって臨まなければならないほどの大きな罪である
ということを、子供から大人まで厳しく教える社会であれば、神への畏れからこのよ
うなことを言い出す者は居なくなるのではないだろうか。
また、男子として生まれた者には男としての役割や責任を聖書に従って躾けることが
第1であり、たとい性同一性障害という診断が下ったとしても、まずしなければなら
ないのは性転換手術ではなくて、心を体の性に合わせる治療であり、癒しを求めて祈
ることであると思います。


2.現代医学では〜という言葉の裏には、「医学の素人は黙って聞きなさい。医学の発
達でいろいろなことが解って来たのだから、必ずしもいこれまでの聖書解釈による必
要はないし、社会の風潮が性同一性障害を認知するような流れにあるのだからそれに
合わせよ」という意志を感じます。つまり聖書を医学で量ることが出来るのだ、とい
う主張です。


性転換手術肯定派からは、考えが古いとか、頭が固いとか、性同一性障害者に対する
理解が無いとか、あるいは冷たいと言われるかもしれませんが、聖書から明確に性同
一性障害は病気であり、性転換手術は聖書に反しないということを導き出せない限り、
現代医学がなんと言おうと私は反対の立場を採ります。そして、聖書は性転換手術を
否定していると考えますが、先生は如何に思われますでしょうか?ご意見をう伺えれ
ば幸甚です。

<tomi>
まったくH様のご意見と同じでございます。

(1)
「医学が進歩した以上、…」といいますが、人間の知恵はどこまでいっても神の知恵である聖書を越えることはできません。
聖書は自分自身「聖書は前提であって、基準以外のものとして扱ってはならない」と教えています。
イエスは悪魔に対して「聖書には…と書いてある」と一喝されました。
それで互いの議論はストップしたのです。
ということは、聖書が真理の最終権威であるということを意味しています。

それ以上に議論をして、「いやいや、聖書はそう言っているかもしれないが、私は…」と言い出したら、その人は、「私の認識能力は聖書を超えている」と主張しているのも同然です。

ヤコブははっきりと「あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではない」(ヤコブ4・11)と述べています。

つまり、反逆です。罪です。

聖書を前提や基準とせず、疑いの対象とすることは、「罪」なのです。

(2)
人間が男性として生まれてくるか、それとも女性として生まれてくるかは、神の選択であり、「召し」です。
人間は、偶然に男性になるのでも女性になるのでもなく、神の任命によって男や女になるのです。

人生とは、あたかも社長から支社に派遣された支店長のようであり、人間はある業務を委託されてこの地上に誕生させられます。

男は男としての使命を果たし、女は女の使命を果たし、使命が終われば、召されて、人生の中でどれだけ自分の使命を忠実に果たしたかについて評価が下ります。

よく「自己実現」という言葉が言われ、「人間には自分らしい生き方をし、自分の才能を開花させる権利がある」かのように言われていますが、聖書は「神の使命を自覚してそれを忠実に遂行することが本当の自己を見つけることであり、本当に自分を実現する有意義な生き方である」と教えています。

私たちは、権威者ではなく、権威の下にあるものです。だから、(非キリスト教的な)自分の自由を追求して生きる権利があるとは言えません。それはヒューマニズムの考え方です。

自分には神と無関係に生きる権利があるというのは、「私は会社の命令と無関係に支店を経営する権利がある」といっている支店長のようなもので、クビにされてしまいます。

私たちの自由とは、「神の意思に従う自由」であり、「自己の欲望を実現する自由」ではありません。

私たちは、自分のDNAも親も国籍も時代も選べません。

私たちは、ある限られた条件を与えられて生まれ「させられた」のです。どんなに「こんな才能を持って生まれてくればよかったのに」と願っても、自分の限界の中でしか生活できません。

「性」も神がお与えになった一つの「条件」であり、それを選択可能とするのは間違いです。

性を選択可能とし、性転換手術をするのは、神の主権的決定を冒す行為です。

聖書は、「性を神から与えられた人生の前提条件として受け入れよ」と述べています。

「女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。」(申命記22・5)


(3)

性の区別撤廃を目指すのは、神が設定された境界線を移す行為であり、人間によって世界を再構築しようとするヒューマニズムの試みです。

「あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。」 (申命記19・14)

聖書の中で、この律法は土地に関する教えを超えて適用されています。

ホセア5・10では、国民が宗教的・倫理的な背信の罪を犯し、指導者たちが腐敗堕落している様子について主は次のように述べられています。

「ユダの君子は地境を移す者に似ている。私は、彼らの上に私の怒りを水のごとく注ぎかけよう。」(アメリカ改訂版聖書)

現代人を日常的に支配しているヒューマニズムは、「世界を神によって創造されたものとしてではなく、人間が定義しなおすことができるもの考える」という前提に立つ教えです。

人間の知恵によって、善悪が定義され、価値観が作り変えられています。

もちろん、これは、エデンの園からえんえんと続いている人間の「反逆の業」です。

今、ヒューマニズムの影響を受けたクリスチャンは、聖書が定めた倫理的「地境」を、人間の主観によって移し変えています。

このような教会の堕落の傾向を食い止めるには、「聖書を前提にする」以外にはありません。

 

 

2004年5月21日

 

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