見えない橋を渡る
インディジョーンズという映画の中で、主人公が、深い谷間にかかっている目に見えない橋を渡るシーンがあった。
まず一歩を踏み出さない限り、橋は現れない。
ただ見ているだけならば、深い峡谷を結ぶものは何もない。
ジョーンズ博士は、第一歩を踏み出した。すると、たしかに足を支える橋が現れた。
これはクリスチャンにとって基本的な態度である。
クリスチャンは、現実によって生きるのではなく、信仰によって生きる。
ノンクリスチャンは「まず現実だ」と考えるが、クリスチャンは「まず神の約束だ」と考える。
神の約束があれば、それを信じて一歩を踏み出す。
約束を見ても何もしなければ、深い峡谷を結ぶものは何もない。
一歩を踏み出すのだ。
そうすれば、足を支えてくれる橋が現れるだろう。
航空機事故を起こしたパイロットを復帰させるには、まず操縦桿を握らせて実際に操縦させることだという。
PTSDを治療するために自宅で静養などするより、仕事に復帰させるほうが治りがよいという。
トラウマがあったり、対人恐怖があるならば、進んで人と接触することだ。
約束を信じて、見えない橋に足をのせることだ。
「人を恐れると罠に陥る」
人を恐れて、ひきこもりになると、サタンは「しめしめ。罠にかかったな」と喜ぶ。
ひきこもりでいる間に、サタンは次から次へと妄想を与えて、いよいよ外界に出られなくする。
これは体験者から聞いたが、いったんひきこもったら、玄関が大きな関門になってしまう。
外に出ることにものすごい抵抗が生じる。
なぜ?ひきこもりの霊が、外に出さないように強く働くからだ。
我々の世界において、結界は非常に重要な要素である。
結界とは、内と外を分けるラインだ。
何でもそうだが、一線を越えると、違う世界が見えてくる。
たとえば、私は高校の物理を勉強したときに、自分が想像していたのとまったく違う世界が広がった。
人生においていくつかのラインをまたがねばならない。
しかし、犯罪のラインとか、悪習のラインというものもあるから注意が必要だ。
おそらく、犯罪のラインを超えると、違った世界が見えてくるのだろう。それは、悪い意味で。
悪習のラインもそうだろう。薬をやったら、異なる世界が見えるのだろう。
おそらく刺青もそうだと思う。刺青をする前と後では、世界が違うはずだ。
このように、結界とは人間にとって「世界を変える」という効果がある。
アダムとエバは、禁断の実を食べたときに「目が開けた」。
一線を越えたので、違った世界が見えてきた。
これは、悪い意味でだ。
我々は、クリスチャンになるときに、まったく違う世界が広がっていることに気づく。
それは、言葉では説明できない。
まったく新しいのだ。
長いことクリスチャンをやっていると、クリスチャンではない時代に自分が何を考えていたか忘れてしまう。
しかし、我々がノンクリスチャンと違うのは、歴然とした事実だ。考えていることも、考え方も全部違う。
我々は、神の国の結界をまたいだ人間だ。
ノンクリスチャンは、まだまたいでいない人間だ。
だから、見える世界が異なる。
クリスチャンになっても、信仰の程度に応じて見えている世界も異なる。
自分の信仰が欠けている分野において、新たに信仰によって道を開いて見よう。
まだ人間やお金を頼っていて、神に捧げていない領域があるなら、思い切って、信仰によって一歩を踏み出してみよう。信仰という結界を越えてみよう。
そうすれば、きっと、空中に橋が現れ、道が開けることだろう。
信仰がない時代の世界とある時代の世界とは、まったく異なるだろう。
そうやってひとつひとつ自分の心の中にある不信仰な領域をつぶしていくこと。これが神の国の発展である。
2010年5月3日
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