ユダの福音書とマリアの福音書3
> なるほど。
> それでは神は偏愛者ですか?
>
> どうして一部の人しか救わないのでしょうか?
神は絶対者であり、誰を救うか誰を滅ぼすかを決定する権利があります。
「え〜そんな横暴な!」とある人は言うかもしれない。
しかし、滅びるのは、自分の罪のために滅びるのです。
AとBという2人の人が同じ罪を犯して牢屋に入ったとします。
奇特な人が現れて、Aの罪を肩代わりし、お金を払って釈放させました。
Bはその人に文句を言いました。「どうしてAだけなのか。不公平だ!」
不公平ではありません。
その人には、AもBも救う責任はまったくないからです。
Aを救ったのは、純粋な恩恵によるのであり、それゆえAは次のように言わねばなりません。
「私はあの牢屋に一生入っていなければならなかった。それなのに救っていただいて感謝にたえません。」と。
神は、救いの権利を一切剥奪された罪人である我々を救ってくださいました。
ですから、救いを神の義務と考えることはできません。神には人間を救う責任は一切ない。
選びの神に向かって文句を言うアルミニアンは、神に対して無言のうちに責任を課す傲慢な人々です。
神が一部の人しか救わないのは、神の栄光のためです。
神は人間に様々な役割を永遠の昔に与えられました。その役割を果たすために人間は、意識するにせよ、しないにせよ、一生を送ります。
ある人は、神に敵対し、迫害者になり、その刑罰を永遠において受けるために選ばれています。
主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。 (箴言16・4)
> もし、神が偏愛者ならどうして私たちは全ての人を
> 無条件で愛さなければいけないのでしょうか?
神は偏愛者ではありません。神の選びには正当性があるからです。
しかし、神は同時に偏愛者です。救われる人を無条件に選ばれるからです。
神は合法的な偏愛者です。
これは、我々が他の人の子供よりも自分の子供のほうを愛するのと同じようなもので、違法性はまったくありません。
神は、私たちに対して、「お前の子供を放置して、他人の子供に食べさせなさい」とは言われません。
法的に我々は、自分の子供よりも他人の子供を優先する責任はありません。いやむしろ、自分の子供は自分が世話をして育てる責任の対象として与えられたのですから、優先する責任があります。そうしないと社会秩序は崩れます。
ただし、福音書では、法の要求水準を越えた行いが命じられています。
『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 (マタイ5・43−44)
ただ消極的に法を破らないように生きるという次元ではなく、それを超え、積極的に他人を愛する生き方こそ神の民にふさわしいということです。
神が敵であった人間のために御子を遣わし殺された大きな愛にならう者として、人間は敵を愛するべきです。
「神が聖であられるように、あなたがたも聖でありなさい」との御言葉から判断するならば、私たちは、法的義務を超えた生き方をすべきであるとは言えます。
ただ、上記の理由から(子供の養育責任)、それが「自分の子供を放置して、他人の子供を救え」ということには適用できないと考えます。
2009年6月19日
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