ミレニアムのホームページを支持することの計り知れない価値
たしかに現在、このHPにおいて述べていることは、普通の教会やメディアでは聞けないテーマが多いと思う。
今アメリカで進んでいるプレテリズムの復活、そして、さらにフル・プレテリストへの逸脱や、古代日本とイスラエルの関係、日猶同祖論などのテーマを他のメディアで学ぶことは不可能だ。
インターネットは、非常に狭い限られた興味の対象に的をしぼって読者に伝えることができるメディアである。
このような読者の限られているテーマを普通の方法で伝えたら確実に赤い時になり、続かない。
インターネットのおかげで、きわめてマイナーなテーマを取り上げることができるようになった。これは、非常に画期的なことだ。
これまで反進化論者には、宣伝する手段がほとんどなかった。メジャーは、進化論者であり、NHKも民放も、大手新聞社も進化論を信じているだろう。大学や教育機関はほとんどすべて進化論者だ。
このような圧倒的な力に対して、我々は、インターネットで広く世間に進化論の問題について問い掛けることができるようになった。
以前ならば、反進化論者は、圧倒的に不利だった。しかし、今は違う。インターネットを通じて、進化論が騙しであり、とても科学と呼べる代物でないことをはっきりと伝えることができる。
精神が健全であり、偏見を捨てる勇気のある、公平な気質を持つ人々は、我々の意見に耳を傾けるようになった。インターネット上で、反進化論者は、圧倒的な勝利を収めてきた。
まさに、ダビデがゴリアテに勝つようなものである。
さらに、我々は、インターネットを通じて、現在の終末論神話に対しても挑戦してきた。
ほとんどの福音的教会が、終末が近い、再臨が近いと考えてきた。なぜならば、19世紀初頭に現われたこの新興思想に対して、保守的な立場は十分に対抗してこなかったからである。一方的に、この思想が広まるのを許してしまった。
そのために、世界の教会は、悲観主義になり、「我々はサタンの世界支配に抵抗できない」と信じ込まされてきた。
彼らは、聖書を、自分の意見を証明するために曲げて解釈し、文脈を無視して状況に適用してきた。
しかし、このような手前味噌の神学もインターネットを通じての我々の活動によって深刻な挑戦を受けている。
誰も真っ向から我々の挑戦を受ける者はいない。我々は、不戦勝で勝つだろう。悲観主義の不信仰なキリスト教は死滅するだろう。
そして、200年ぶりにキリスト教は正統的な教えに帰り、クリスチャンは、サタンに対する圧倒的な勝利者(ローマ8・37)として、彼らの勢力をあらゆる領域において次々と征服していくだろう。
さらに、我々は、日本の国の意味について意見を発表してきた。
日本人は、日本の国がどのような国であるかを知らない。
学校でも教会でも教えてくれなかった。
今、親たちが高い金を払って送っている教育機関は、我々にとってもっとも大切な情報を与えていない。
そのもっとも大切な情報とは、「なぜ?」という疑問に対する答えである。
学校でも教会でも、「何を?」「どのように?」の答えは教えてくれる。
しかし、「なぜ?」の答えは教えてくれない。
ただ、何世紀に何が起きて、誰がどうした、という情報では足りない。
なぜ歴史はこのように推移してきたのか?
これこそが最も重要なことである。個別の歴史的事件は、「なぜ?」という疑問に答えられなければ意味がない。
教会においても、聖書の中に記されている事実は教えてくれるが、歴史全体を通じて、人間がなぜ生きており、クリスチャンはどのような使命があるかをはっきりと教えてくれない。
教師たちは、このような問題について意図的に避けているように見える。
我々が必要としているのは、「なぜ?」への答えなのだ。
なぜ日本という国があるのか?
紀元○○年に卑弥呼が・・・した。などという情報は、本を読めば済むものだ。
我々が知りたいのは、なぜ日本という国があるのか、神の計画の中でどのような使命を与えられているのか?ということだ。これこそ問題の中核であり、我々の人生が益になるか無益かの境目だ。
無神論者は、「日本になど意味はない」というだろう。なぜならば、この世界は進化によって偶然にできあがったものだから。
しかし、クリスチャンは、すべてには「目的」と「使命」が与えられていると考える。
なぜならば、万物は神の被造物だから。神の目的にしたがって創造されたものだから。
そうならば、我々にとって最も重要な情報とは、「なぜ日本は存在するのか?」「世界においてどのような使命が与えられているのか?」という疑問を発し、そして、それに対して回答を与えなければならない。
今日、教会がこのようなテーマを避けているのは、目を自己に向けているからだ。教会が教えてきたのは、
「いかにして、我々は祝福され、人生を幸せに生きることができるか?」
という、人間中心の(ヒューマニズムの)教理だったから。
幸せの青い鳥を求めても、永遠に捕まえられないように、青い鳥を探すのを手伝っている教会も、永遠に求める人々にそれを提供できない。
教会は、ヒューマニズムの学校同様、大金を使って無益なことをやっているのだ。
人間は、使命を果たす時に、はじめて幸せを得ることができるが、幸せを第一に求めている限り永遠に幸せになれない。
だから、我々は、歴史も物理も生物も経済も政治も、あらゆるものを「使命」というテーマを中心に求めていかなければならない。
この世界を「造られたもの」という前提で見ていかねばならない。
このような徹底した有神論的なものの見方を我々は、これまで追求してきた。
だから、こういったものの見方になれていない人々は、我々の述べていることに当惑したかもしれない。何をおかしなことを言っているのか?と思ったかもしれない。
当然である。
まずこれまで教えられてきた教育の前提と、我々の前提はまったく異なるからだ。
メジャーな立場は、「人間中心」「自分の幸せ中心」という前提に立っている。しかし、聖書の前提は、「神中心」「神の幸せ中心」である。
人間は、神の幸せに貢献するために創造されたものに過ぎない。
この歴史は、神の幸せを実現するための過程であり、人間は、この神の幸せを成就するためのコマである。
「え〜、そんな勝手な!」と思ったあなたは、まだまったくマインドコントロールから抜けきっていない。
我々は、まず「人間は自分の幸せを中心に人生を送ってよい」というサタンが吹き込んだ前提を疑うことからはじめなければならない。
そうしない限り、我々の主張を理解することは永遠にできないだろう。
我々の立場は、無数にあるインターネットのホームページが立っている前提と180度違う。
そして、恐らく我々と同じ立場に立つホームページは世界でも数えるほどしかないだろう。
世界がほとんどサタン化され、最後の砦であるべき教会もほとんどサタン化された今、我々のようなアウトローの働きがいかに重要であるかを評価していただきたい。
ほとんどがバアルの預言者のもとに走り、最後にエリヤだけが残ったような状況なのである。
今日の霊的涸渇の原因は「ヒューマニズム」という名の偶像礼拝にあることを認め、我々とともに立つ人々に神は偉大な祝福をお与えになるだろう。我々が認識するよりも、この働きは、はるかに価値がありだろう。ほとんどのクリスチャンは、そのことを天において知るだろう。
2004年10月25日
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