預言を回復しよう
(1)
霊の世界がわかっていない人は、預言なんて存在しないと考えている。
しかし、預言は存在する。牧師のメッセージそのものが預言である。
講壇からメッセージが語られるときに、自分の心にあったことがぴたりぴたりと当たる経験をしたことがある人は多いはずだ。
私のHPの掲示も同じようにメッセージかもしれない。
私は、自分がインスピレーションで示されたことを語っている。
そして、それが聖書に裏付けられている場合に、本当の預言だと思っている。
預言の形態はいろいろある。雲を通じて、虹を通じて、星を通じて、動物を通じて、昆虫を通じて、被造物を通じて神はメッセージを送られる。
この世界に存在するすべてのものは、預言なのだ。
人体解剖図を見るときに、我々はそこに神のメッセージを見る。
神の被造物の巧みさを見るときに、我々は御心を知る。
だから、近代になって流行した預言は聖書の御言葉だけだなどという偏狭な教えに染まってしまった神学では、クリスチャンは本当に解放されない。
私があるとき、梅の木を見て「神様ってこういう色使いをするんだねえ」と語ると、あるクリスチャンがびっくりして言った。「ああ、こういうふうに世界を見るんですね。」と。
我々は、学校教育によって目が汚染されているのだ。
学校教育では、世界は創造された世界ではない。それは、「たまたまそこにあるもの」でしかない。
一つ一つの個物は、互いに関連性のない偶然の産物。
進化論において、りんごがおいしいのは、神が人間の味覚にあわせてそう創ってくださったからではなく、たまたま味覚のよいものが生き残って、たまたま人間の味覚と合ったということでしかない。
このような「感謝のない世界」にしてしまった。
悪魔の所業である。
我々は、りんごがおいしいと感じたときに「神様こんなにおいしい物を創ってくださったことを感謝します」と言うべきだ。
「べき」というのはおかしい。そのように自然に口をついて出てくるのが自然なのだ。
血の色を見てどう思うだろうか。
血の色は、単なる赤ではない。人間を興奮させる色だ。ある意味で毒々しい。危機感を与える色だ。
これが透明だったらどうだろうか。そんなに興奮しない。すると、危機意識がないから、事の重大性に気づかない。
血の色は、我々の心に「警告ランプ」を点滅させる。そして、同時に「かわいそう」という憐憫の情をもよおさせる。
そういうふうに造られたのだ。
この自然のあらゆる部分に神の細やかな配慮がある。
そういうふうに、「自然を預言として見る」ということがもっと自覚されなければならないと思う。
そうしないと、キリスト教は非常に薄っぺらいものになる。
人間の作る芸術は、この神の創造のメッセージ性を意識したものであるべきだ。
つまり、昔の芸術のように象徴を尊重すべきだ。
(2)
友人のK氏は、唯物論者だった。
しかし、クリスチャンの奥さんと仏教徒のお母さんの間で板ばさみになり、あるときどうしようもなくなって「真理とは何ですか!」と心の中で叫んだ。
たまたま奥さんを教会に送る際に礼拝に参加した。
牧師のメッセージを流して聞いていたが、牧師が発したある言葉を聞いたときに突然雷に打たれたような衝撃を受けた。
それは、ピリピ2・6-7の御言葉であった。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2009年11月1日
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