神道は贖罪信仰に溢れている


三嶋大社のビデオに人形が写っていたのを見て思った。

日本はキリスト教と離れている、贖罪信仰がないと言われていたが嘘だと。

陰陽道の人形は、贖罪、罪の身代わりをあらわす。

流し雛、灯篭流しなど、神道や日本の伝統行事には、罪や穢れを他者に転嫁して、流すという考え方がある。

やはり、そうだ!

日本にはキリスト教が隠れていた!

日本神話で、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は「祓つ物(はらえつもの)」を差し出す場面があるが、「祓つ物とは罪や穢れをあがなうために祓の代価として出す品物」(Yahoo辞書)だそうだ。

日本書紀には、次のような箇所がある。


「罪を素戔嗚尊に科(おお)せて、其の祓つ物を責(はた)る/日本書紀(神代上訓注)」三省堂提供「大辞林 第二版」

この箇所は、「罪を素戔嗚尊にきせ、贖罪のものをとった。」と解釈できるという。
http://www1.bbiq.jp/shinsisyuppan/nihonsyoki8.htm

「お祓い」とは、罪を贖う行為であり、罪の代価を差し出す行為なのだ。

ある写真で、ユダヤ人が礼拝において、神主の榊を振るお祓いの動作と同じようにヒソプを持って左右に祓う動作をしているのを見て驚いた。

ヒソプの枝は出エジプトの過ぎ越しの時に、イスラエル人の家の鴨居と門の柱とに、小羊の血をその枝に付けて塗ったことから、贖罪の枝と呼ぶことができる。

神主の榊とヒソプの枝は同じ意味があるのだ。

しかも、興味深いことに、辞書によると「祓う」は「『払う』と同語源」とあり、お金を払う行為と罪を帳消しにする行為が密接に関係していることがわかる。

「お祓い」の代価としての「賽銭」は、実は贖罪金の提出という意味を持っていたのだ。

我々が考えていた神道の姿と実際のそれは非常に大きく違っていた。

我々クリスチャンは、神道を「贖い抜きの自力本願」の類としてみていた。賽銭を投げるのは、「神の前に気に入ってもらうため」のように見ていた。つまり、行いによる救いを求めているかのように考えていた。

しかし、実際は、「贖罪の代価」を払っていたのだ。

我々クリスチャンは、罪の代価はキリストの血であることを知っている。

我々の罪は、キリストの血によって赦され、代価は十字架において支払われた。

実は、日本人は古来から同じように贖罪を信じてきたのだ。

その観点から見ると、茅の輪くぐりも贖罪であることが分かる。鳥居にくくりつけた血の輪をくぐることによって厄を「祓う」。

血による贖いだ!

神道には贖罪が溢れている。神道は贖罪の宗教であって、行為義認の宗教ではない。

日本人は古来から贖罪を受けてきたのではないか。

主要な神社を訪れてなぜ異教であるのに聖い雰囲気が漂っているのか、不思議だった。

実はキリスト教と同じ、贖罪信仰だからではないだろうか。

 

 

2009年6月21日

 

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