世界は破局に向かっているのではなく、完成に向かっている2
ペテロやパウロやヨハネなどが「終わりは近い」と聖書の中で語っているのは、「旧約の体制の終わり」なのである。
彼らが直面していたのは、神殿礼拝に象徴される「型の時代」の終焉である。
神殿や幕屋における宗教儀式は、イエス・キリストの犠牲を予表するものであり、イエス・キリストが十字架についてそれらを成就してしまったので、もはや神殿も幕屋も不要なのである。
そして、キリストにある契約の支配体制がどのようなものであるかを具体的に示すために立てられたイスラエル民族の民族的体制も、型の時代が終わったので、もはや不要になった。
救いはイスラエルに限定されず、すべての国民に開放された。
すべての国民は、イエス・キリストを信じることによって、エデンの園に入ることができるようになった。
聖書は、旧約の体制が終焉することを、天地の滅亡という象徴的表現で表している。
「…天地は滅びる。」(マタイ24・35)
「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。 」(2ペテロ3・7)
「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」(2ペテロ3・10)(*)
そして、これに対して、新約時代は、新天新地という表現で表されているのである。
「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(2ペテロ3・13)
我々、新約時代の人々は、新天新地に住んでいる。
イザヤは、新天新地を、死ぬ人がいる世界と表現している。
「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。 …そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。」(イザヤ65・20)
それゆえ、これが「死のない」黙示録22章の新天新地とは別であることは明らかである。
つまり、こういうことである。
紀元70年に、旧い天と地が滅び、新しい天と地が現れた。
この新しい天と地は、イザヤ書の新天新地、黙示録20章の千年王国であり、依然として死ぬ者があり、戦いがある。
この時期に教会は諸国民に福音を伝え、彼らをキリストの弟子とする使命が与えられている。
最後の審判があり、死人に対する裁きが行われる。
その審判の後に現れる新天新地は、「死のない」新天新地である(黙示録21・4)。
(*)
これを読んで、「え〜、ペテロは世界の終末について預言したのではないか?」と思われるかもしれない。
残念ながら、ペテロは旧約世界の終末について述べているのである。
「万物の終わりが近づいた。」(1ペテロ4・7)
「終わりが近い」と述べている以上、この終わりが、旧約世界の終末であることは明らかである。
「いや、この『近い』という言葉は神の観点から見て『近い』ということだ。神にとって千年も一日のごとし、だから。」
残念ながら、ペテロの手紙は、手紙の読者を嘲笑する人々の存在を前提としているので、当時の読者のタイムスケールを基準としているのは明らかです。
「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」(2ペテロ3・3−4)
このような状況に対してペテロが2000年も後の聖書読者に向けて発言すると考えることはできません。
2005年11月24日
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