フルプレテリズムとパーシャルプレテリズムに関する質疑応答2


<O様>
> 富井先生、詳細なご回答に感謝致します。
> > (Q6)第一テサロニケ4:14〜17について
> > プレテリズムの立場では、この再臨・携挙は既に起こったことと解釈されるのでしょ
> > うか?
> > (A5)
> > そうです。

ここなのですが、パーシャル・プレテリズムでも、再臨・携挙は既に起こった、という立場に立つのでしょうか?また、もしそうなら、それはいつ起こったのでしょうか?
お忙しいところ申し訳ありませんが、宜しく御教示下さい。

<tomi>
パーシャルプレテリズムはそのようには解釈しません。
携挙も再臨も未来に起こることであると考えます。
正確に言うと、携挙に関しては紀元70年頃に起き、現在も個々のクリスチャンが肉体を離れるときに起きる。再臨は紀元70年に起き、歴史が終わるときに第二の再臨がある、と考えます。
もし紀元70年に何もかも起こったと考えると、このような悪の世界が永遠に続くということになってしまいます。
これは、マニ教の異端です。
聖書は、明らかに「悪魔の完全幽閉」を最後の最後としております。

フルプレテリズムが携挙がすでに起こったと主張する内容は、「クリスチャンは死ぬ時に天に昇る、これを携挙と称する」ということです。

しかし、聖書は「ラッパの音とともに一瞬のうちに」と書いてあり、(人間の死とともに)何千年にもわたって徐々に起こることとは記しておりません。

フルプレテリズムが70年に再臨が起こったと主張するために、苦肉の策として、「この個所は、クリスチャンの個人的死を意味しているのだ」と主張しているのです。

 

 

2004年3月15日

 

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