為政者は聖書の刑罰観に従うべし


ネットで募った仲間と金を奪う計画を立て、命乞いをする被害者の女性の頭に袋をかぶせ、首を絞め、かなづちで数十回殴った殺人者に死刑判決と無期刑の判決がくだった。

被害者の母親は、無期になった犯人が、ただ自首したというだけで死刑にならないというのはおかしいと言っていた。

裁判官は、「捜査に協力し、再犯を防いだ」功績により減刑されたという。

恐ろしいことである。

アメリカの司法取引と同じ発想である。

つまり、「実用主義」。

捜査に協力し、再犯を防いだということは国にとっては利益かもしれないが、被害者である本人や家族にとっては(ある意味で)どうでもいいことだ。

被害者は死刑を求めているのである。

国の利益のために被害者が不利益を被っている。

司法取引とか今回の判決とか、司法の目が国民にではなく、国に向いていることを如実に表している。

聖書では、刑罰を決定するのは被害者である。聖書に定められた最高刑の範囲内ならば、被害者が加害者にどのような刑罰を下すか自由に決定できる。

今回のような判決が続けば、被害者、そして、被害者になり得る国民の不条理感は増し、その鬱屈した感情は一挙に爆発することになるだろう。

賢い為政者は、聖書の刑罰観に従え。

 

 

2009年3月19日

 

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