再建主義の批判者の多く、いやほとんど全員が誤解しているところは、「再建主義の社会では、同性愛者は公開処刑される」と考えている点である。
なぜそう考えるかというと、我々が旧約律法を現代世界に適用しなければならないと言っているからだ。
彼らの問題は、第一に、仮に同性愛者を公開処刑することに反対するにしても、その反対の理由を聖書から示すことができないという点だ。
再建主義の反対者は、人々の感情に訴えるだけだ。「え〜そんなひどいことを主張しているのですか?」という反応を期待している。
御言葉の前に、人間の反応にはまったく意味がない。
誰が何を感じようと、神の御言葉はびくとも動かない。
だから、人々を煽動しても無駄だ。
また、このような人間の感情や反応を期待するならば、復活や他の奇跡についても同じ反応をされたときに、反論できなくなる。
例えば、復活を聞いて人々が「え〜死人が生き返るなんて!」という反応が起きても、文句は言えない。
人間の感情や常識、理性などに頼るクリスチャンは、信仰をこの世界から消してしまい、最終的に自分の首を締めることになることに留意すべきだ。
第二に、聖書から同性愛者の公開処刑を否定できるという箇所を示さねばならない。
聖書信仰を標榜するアルミニアン・ディスペンセーショナリストであればなおさらだ。
それとも、同性愛者の扱いについてだけは、聖書は権威ではないというのだろうか。
第三に、律法について誤解がある。
律法は、新約時代になって祭司制度が変化したので、変わった。
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません(ヘブル7・12)
それは、超民族的、超時代的になった。なぜならば、キリスト及び世界のクリスチャンが民族に関係なく祭司になったからだ。
旧約時代において、祭司はイスラエルのレビ族に限定されていた。
しかし、新約時代において、祭司が超民族的になったのであるから、律法も超民族的になった。
注意しなければならないのは、これは、変化であって、廃棄ではないということだ。
なぜならば、聖書において繰り返し「律法は廃棄されない」と言われているからだ。
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5・17)
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。(マタイ5・18)
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)
新約時代において犠牲制度が廃棄されたのは、実質的に廃棄ではなく、「変化」である。
犠牲の動物は、キリストという実体に変化した。
旧約聖書における犠牲制度は、キリストによる犠牲によって「成就」した。
だから、我々にとって、律法の中の一点一画たりとも廃棄されたと考えてはならない。
一般にガラテヤ書に基づいて、廃棄されたと唱える人がいるが、間違いである。
ガラテヤにおいて言われているのは、旧約時代のユダヤ民族に適用されたものが、普遍的超時間的超民族的に代わったということだ。
我々は動物犠牲をする必要はないし、割礼を受ける必要もない。
我々は現在、動物の代わりにその本体であるキリストを犠牲として捧げるのだ。契約に入る儀式はバプテスマになった。
司法に関して律法は廃棄されたと考えてはならない。廃棄されたのではなく成就されたのだ。
だから、司法律法において規定されている義の基準は、形を代えて現代に適用しなければならない。
第四、律法は契約の一部である。契約は合意を必要とする。
だから、もし国の法律として制定するのであれば、国が神との間に契約を結び、合意を得るべきだ。
モーセ律法は、神との間に契約を結んだイスラエル人に適用された。
イスラエル人は、モーセから律法を提示されたときに、「私たちはみな守ります」と明言した。
これにより、神とイスラエル民族は契約の関係に入った。
だから、モーセ律法をそのまま国家に適用することはできない。
クリスチャンが圧倒的大多数にまで増えて、日本が国民契約を神と結ぶようになった時に、律法を適用できる。
それまでの間は、任意に国民の意思において採用することはできるが。
原則は、「神はレイピストではない」ということだ。契約は常に双方の合意に基づく。結婚と同じだ。
国民に抵抗がある間、たとえクリスチャンが政権をとったとしても、無理やり国民に適用することはすべきではない。
第五、それでは、国民契約を結ぶ前において、同性愛は倫理的罪ではないのか、というとそうではない。
同性愛者に溢れていたソドムとゴモラは火で滅ぼされた。神の御心は永遠に変わらない。
同性愛によって汚染された社会に対して神は必ず裁きを下される。
たとえ人間社会が許容したとしても、神はそれを見過ごしにされない。
第六、それゆえ、同性愛に対する処刑は、社会を神の裁きから守るための神の恩寵であると理解すべきだ。
交通法規が我々のために存在するように、神の法は、人間の利益のために存在する。
律法は、神の愛の表現である。