なぜ幼児洗礼を実行すべきか?


なぜ幼児洗礼を実行すべきかと言えば、我々は


「人間は、行いによるのではなく、ただひたすらに神の恵みによって救われる」ということを示す責任があるから

である。

エサウとヤコブは、2卵生双生児であった。

聖書は、「生まれる前から、神はヤコブを愛し、エサウを憎まれた」と教えている。


その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。 (ローマ9・11-13)

人間の努力とか、行為とか、才能とかまったく関係ないのである。

救われるか、滅びるかは、「ただ、神の決定」による。

我々がイエス・キリストを信じることができるのは、神がなぜか我々を恵んでくださって、我々に信仰を与え、救いに与らせようとされたからである。

救いが我々の側の問題ではないということを示すために、神はあえて双子を選び、生まれる前から一方を選び、他方を捨てるということを行われたのである。

人間の側から見れば、とんでもない神様ということになるが、それは「発してはならない愚痴」なのだ。


こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。

すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」

しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。

陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。

ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。(ローマ9・18-22)

神がイスラエルに「8日目に割礼を施せ」と命令された理由は、「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」(ローマ9・16)という事実を示すためなのである。

それゆえ、同じ理由で、新約時代の割礼である幼児洗礼を実行しなければならないのである。

 

 

2006年2月23日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp