黙示録はキリストの再臨や世界の終末に関する書物ではない5


代表的なディスペンセーショナリストであるC・I・スコフィールドは、黙示録のアジアの7つの教会は「全歴史の教会」の要約であると述べた。


「(アジアの7つの教会は)教会の霊的な歴史の7つの段階(を表す)」(The Scofield Reference Bible (Oxford University Press, 1909), note on Revelation 1:20)

スコフィールドはさらに、

「教会時代に関する預言の中に、このような予見がまったく存在しないと考えることはできない。」(同上)

と述べた。

たしかに、そうかもしれない。しかし、どうして黙示録がこの予見を含んでいると言えるのだろうか。

実際は、ヨハネはこのような予見をまったく行わなかった。なぜならば、黙示録は「(実現の)時が近づいている」(1・3)ことについて語っている書物だからである。

スコフィールドの「7つの教会は教会の7つの時代を表す」という説はまったくの誤謬である。

彼は、教会の最後の段階は「背教」に終わる、と述べる。最後の段階を表すラオデキアの教会が、生ぬるい、背教の教会だったから、と。

さらに彼は「我々は黙示録が示す教会の最後のステージに生きている」と断定し、「教会はこの背教と敗北から立ち直ることができないままに再臨の時を迎える」と結論した。

スコフィールドのこのような悲観的な未来観は、様々なスタディ・バイブル(例:Thompson Chain-Reference Bible: New International Version (Indianapolis: B. B. Kirkbride Bible Co.; Grand Rapids: The Zondervan Corporation, 1983), "Outline Studies of the Bible," No. 4308j ("The Seven Churches of Asia"), p. 1602, cited in The Days of Vengeance, p.56)を通じて広まり、世界中のクリスチャンが悲観的終末論に感染した。

黙示録は、「アジアの7つの教会は教会史を象徴している」などとどこにおいても述べていない。

むしろ、黙示録が伝えているのは「”7つの教会の人々にとって”すぐに起こること」(1・3)であり、それゆえ「”7つの教会の人々にとって”心にとめるべきこと」(同)である。

「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」(黙示録1・3)

聖書は、むしろ、教会の最後のステージは栄光と完成であると述べている。

キリストは万物が回復しない限り、天から降りてこられない。

「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時(原語では『万物の回復の時』)まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・21)

「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(ヘブル10・12-13)

キリストはすべての国民はキリストの弟子となると予言された。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国民を弟子としなさい。」(マタイ28・19)

デイビッド・チルトンは、今の教会はまだ歴史の初期の段階にいると述べた。

「恐らく、終末はまだ何千年も先のことだろう。我々はまだ初代教会の状態なのだ!現代の教会の知識人がよく今の文明を『ポストキリスト教文明』と呼ぶが、聖書的に言えば、それはまだほとんど『プレキリスト教文明』なのである。」(The Days of Vengeance, pp. 56-57.)

チルトンはさらに、ウォーフィールドの著書の中で紹介されたウィリアム・テンプルの言葉を引用した。

「地球上に(人間は)、おそらくこれから何万年(myriads of years)
も居住できるだろう。もしキリスト教が最終的な宗教であるとするならば、教会はまだ幼児の段階にある。2千年は2日のようなものだ。『原始教会』へのアピールは間違っている。なぜならば、我々が『原始教会』なのだから。」(B. B. Warfield, "Are There Few That Be Saved" in Biblical and Theological Studies (Phil: P&R, 1968), pp. 334-350, cited in The Days of Vengeance, p. 57n.)

また、ウォーフィールドの同著作の中にあったジェームズ・アダリーの言葉も引用した。

「しかし、我々は、キリスト教がまだ若い宗教であり、まだキリスト教史の最初の段階にあるということを自覚すべきだ。」(同, p. 347f.)(*)

我々は、聖書に明記されていない以上、いつ終わりが来るか分からないが、諸国民が弟子化されることもなく、教会が栄光の状態にもなっていない現状において終末を近未来に期待することはできない。

「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」(使徒2・35、ヘブル1・13)


(*)
テンプルもアダリーも社会派であったが、改革主義ファンダメンタリストのウォーフィールドが好意的に引用したことからチルトンも紹介したのだろう。

 

 

2005年12月30日

 

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