詭弁を弄している間は教会は祝福されない
<O様>
さて、本日の配信記事「サタンの究極的な目的」拝読しました。先日、キリスト教放送FEBCを聴いておりましたら、キリスト改革派の某牧師が、科学と信仰は同じ土俵には乗らない、というメッセージを語っておられました。おやおや、と思ったのですが。御参考までにファイル添付致しますので御一読下さい。
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週も先週に引き続き匿名希望の方からのご質問です。メールをご紹介します。
「山下先生、もう一つ質問があります。それは科学と聖書の関係についてです。学校では進化論を習っています。しかし、聖書では世界も人間も神が造ったと教えています。自分としては科学の方が正しいように思います。聖書は結局人間が書いたものに過ぎないのではないないかと思うのです。いったい自分でもどう考えたらいいのか分かりません。ただ、科学の方が信じられるような気がします。それではキリスト教の信仰と矛盾することになるのでしょうか。」
お便りありがとうございました。今週も仮にAくんと呼ばせていただきます。A君が中学生になっていろいろと知識が増え、今までのようにただ鵜呑みに信じるのではなく、いろいろと考えることができるようになったことは、まず何よりも喜ぶべきことだと思っています。
ただ、今度は逆に教科書やインターネットで得た知識をそのまま鵜呑みにしてしまってはいないかとそれも心配といえば心配です。そこで、まずは科学とは何か、聖書とは何か、そのことからお話する必要があるように思いました。
そもそもA君のものの考え方には科学も聖書も同じ土俵の上で議論できるという前提があるように思います。なるほど真理は一つしかないのですから、科学も聖書も真理の探究の結果、一つの真理に到達しなければおかしいと考えるかもしれません。もし、科学と聖書の間で異なった結論に至ったとすれば、どちらかが間違いでどちらかが正しいと考えているのではないでしょうか。単純な組み合わせから言えば、一致するか、一致しないかの二通りしかありませんが、一致した場合としない場合から引き出される結論は、単純に二通りではありません。両者が一致する場合、そこから言えることはその結論が真理なので一致した、と考えることもできます。しかし逆に、たまたま一致しただけで実は両者とも真理ではないと言うこともあるかもしれません。
逆に一致しなかった場合にも、どちらかが真理で、他方は間違いだと言う場合もあるかもしれませんが、両方とも真理ではないということもありえるわけです。
ところで、今見てきたことは、単順に科学と聖書は同じ土俵の上で比べることができるという前提で物事を見た場合です。
しかし、そもそもこの二つは違う土俵もものであるとすれば、科学と聖書の出す結論が違っていたとしても、直ちにどちらかが真理で他方は間違いであるとは単純にいえないのです。
ぴったりの例ではありませんが、バレーボールとバスケットはどっちが正しいのか、どっちが強いのか、そんなことを考える人がいるでしょうか。この二つはまったく違ったルール、違ったコートで戦い競われるものですから、その質問自体がナンセンスというより他はないのです。
科学と聖書ということを考える時に、あまりにも無造作にこの二つを同じ土俵、同じルールと考えて単純に競わせてはいないでしょうか。A君の混乱はまさに比べられない二つのものを無理やりに比べようとして、混乱してしまっているように思います。
そこで、まず聖書とは何か、ということですが、それ自体がキリスト教会の中で意見の一致があるわけではありません。しかし、伝統的な考え方によれば、聖書は神によって啓示され、人間によって最終的な文書としてまとめられた書物ということができると思います。そして、文書化される過程も含めて神の霊感がそこにはたらいていると考えられています。
細かいことを抜きにして、要するに聖書とは神から与えられたという前提で読むべきものなのです。ほんとうにそれが神によって与えられたものであるのかどうか、という疑いを抱くことも自由ですが、残念ながら、聖書が霊感された啓示の書物であるかどうか、それを検証すること自体ができないのです。言い換えれば聖書が説いている真理というものは信じることによってだけ受け止められることができるものなのです。それが聖書という書物の性質であり、それが聖書を読む場合のルールなのです。もし、聖書が検証されうるものだとするならば、そもそも聖書は信じるべきものではなく、検証された事実を認めるか認めないかというただそれだけのことになるのです。
もちろん、聖書を読むための学問的な読み方というものがあります。信仰によって受け止めるという読み方と、聖書を歴史的な文書として学問的な方法論で読むということはけっして矛盾するものではありません。この話はし始めると問題が横道にそれてしまいますので、また別の機会にお話したいと思います。
さて、それに対して科学というものは、実験や観察によって発見されたり検証されたりする個々の事実を、全体としてどのように論理的に説明することができるかという体系です。そして、神が存在するかしないかということをそもそも学問の前提とはしませんし、またそれを学問の対象とはしないのが前提です。このことは信仰を持った人は科学の研究ができないということでもなく、信仰をもたないことが科学をする上での基本的な前提ということでもないのです。
随分乱暴な言い方をしてしまいましたが、肝心な点はこう言うことです。科学は実験や観察によって確かめられるものがその対象なのです。ですから問題となっている神が天地を創造されたのかどうかという問題は、そもそも科学と言う学問の対象外の問題なのです。科学はそれを肯定することも否定することもできないのです。
では、問題となっている進化論は何をしているかというと、発見された個々の事実を年代順に並べて、それぞれの個々の事実がどのようにして起ったかを関連付けて説明し論理的な体系を建てあげることです。
ですから、まずは発見された個々の事実が何であるか、それを確定しなければ学問はスタートしません。そしてそれらの個々の発見が正しく年代順に並んでいるかどうか、その点も検証されなければ出てくる結論が違うものになってしまいます。
そして最後にその発見と検証された事実が何を意味するのか、何をどこまで言うことができるのか、そのことが検討されなければなりません。このような最後の部分は説明や解釈を含む部分ですから、ちがった説明や解釈の余地がいつも伴うものです。学者の間でほぼ一致した見解となれば、それは学問的な通説となるわけです。しかし、当然、そうしてできあがった論理的な説明や体系に矛盾する事実が発見されたりすれば、そこで新たな説明の体系を作り上げなければならなくなるわけです。
それが、科学という学問であり。科学というものの面白さでもあるのです。
科学がそういうものであるということをしっかり頭の中に置いておくことができれば、科学か聖書かという、あれかこれかという問題で頭を悩ますことはないはずです。
2008年2月19日
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