日本に関する仮説 22


(1)
バビロン捕囚後の離散ユダヤ人の重要性をこれまでクリスチャンは見失ってきた、と何度も語ってきた。

彼らがアジアの文化に与えた影響は計り知れない。

宗教、十二支、陰陽、漢字、養蚕、土木などもともとユダヤ人が持ち込んだ文化ではないだろうか。

それが、あまりにも土着化して、起源が不明になってしまったのではないだろうか。

以前、ミトラ教こそ旧約聖書や新約聖書の起源であると考える人からメールをもらった。

私は、アジアなどに共通する宗教思想は、ミトラ教が起源なのではなく、ユダヤ人の宗教が起源なのだと考えている。

なぜならば、創造からアブラハムの選び、そして、キリストの救いにいたるまで、神はイスラエルを預言者として選ばれたからである。

真理を伝えるために神が選ばれたイスラエルと、彼らが残した聖書を基準にして考えるべきだと思うからである。

中東民族思想やアジア思想、ギリシア思想等が聖書に影響を与えた、と考えるリベラル思想は、この事実を拒否している。

実証主義的歴史学は、歴史的記録や証拠文献、考古学的証拠等に基づいて歴史を叙述するのだが、我々クリスチャンは、こういった学問によって「聖書啓示の絶対性」への信仰を失ってはならない。

以前NHKで、上智大学神学部の教師が、「エリコの城壁が自己崩壊した歴史的・考古学的証拠はない」と述べ、聖書の記述は誤りだ、と述べていた。

このように学問的証拠を聖書啓示に優先させるのは、神への冒涜であるだけではなく、キリスト教を崩壊させる愚行である。

エリコの城壁に関しては逆の証拠も見つかっているが、我々は、考古学的調査などというものによって聖書啓示に対する信頼を奪われてはならない。

聖書啓示は、絶対不動の権威であって、それについて文句を言うことは許されない。

「科学的証明」を絶対とするのは、ヒューマニズム思想であって、聖書的キリスト教思想ではない。

聖書的キリスト教は、人間の経験から出発するのではなく、聖書啓示から出発しなければならないので、聖書の記述と矛盾する考古学的証拠が出てきた場合、それを無視すべきである。

それは、「客観的真理を拒絶せよ」ということではなく、「そのような証拠が本当に聖書の記述を否定できるかどうか確かではない」ということなのである。

たとえば、エリコの城壁が自壊した証拠がない、というのは、「今のところない」もしくは「それは方法その他において何らかの間違いがあって自壊しなかったと判断したのだろう」ということなのである。

離散ユダヤ人のアジア文化に与えた影響は、まだ未開拓の分野である。

マービン・トケイヤー氏が、シルクロードにおけるユダヤ人の活躍について証言しておられるが、この分野に関してもっと研究が進めば、ユダヤと日本をつなぐ絆が明らかになり、日本の宗教(神道)におけるユダヤ人の影響について学問的にしっかりした研究が進むことであろう。

(2)
紀元前6世紀に離散ユダヤ人は世界中に散ったのである。それは、聖書がはっきりと証言している。

バビロン捕囚が終わったということは、「刑罰が終わった」ことを意味している。それにもかかわらず、パレスチナに大多数が戻らなかったのはなぜだろう。なぜあれだけ「エルサレムへの帰還」を夢見たイスラエル人が、逆の方向に向かったのだろう。

誤解しないでほしい。アジアに向かった、または散った人々は、刑罰のゆえに散ったのではない。刑罰はペルシャ王クロスの解放宣言後に終了したことが明らかだ。

ビルマや中国、アフガニスタン、インド、そしておそらく日本に残ったユダヤ人たちは、刑罰のゆえに放置されたわけではない。

彼らは依然として契約の民なのである。彼らは異邦人の中に埋没したように見えるが、しかし、契約の主である神は、契約の中にいる人々を忘れたまわない。

今は雑草しか生えていない地、キリスト教の根付かない地のように見えるが、神ははるか昔にアジアに散り、消えてしまった契約の民を忘れず、時の到来とともに復活させることを計画しておられる。

(3)
イスラエル政府の公的機関であるアミシャブが、「バビロン捕囚解放後、イスラエル離散部族の主流グループは日本に入った」という内容の公式見解を発表した。

おそらく、我々日本人は、契約の民、神の民なのだろう。

先日、TVで養老孟司氏が、「鎖国時代、出島で唯一交易が許されていたオランダ商人――彼らは世界中を旅し、様々な国々を見ていた――が、長崎港に入った時に日本の自然を見て、ここは天国ではないか、と感じたそうだ」という内容のことを述べておられた。

日本という国が特別な意味を与えられて存在するということを古代のユダヤ人は知っていたのではないだろうか。

彼らは、アジアの他の地域に埋もれた離散ユダヤ人と同じように、歴史の中で自らの姿を消した。

しかし、彼らが契約の民であるという事実は消えない。神はご自身の民を永遠に忘れたまわない。

今は雑草の生い茂る場所かもしれない。しかし、種は地中にしっかりと埋もれているのである。時がたてば、その種は長い眠りの後に発芽するだろう。

 

 

2006年6月7日

 

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