心の門を軽々しく開けるな
昨日、ある外国に住む友人から電話があった。
昨年のクリスマスに、その国の人の家庭に招かれたそうだ。
そこで、「何年日本に帰っていないのか。」と聞かれたので「16年です。」と答えると、その父親が、「それはひどい。言語道断だ。」と憤慨し、「親を敬わなければならない。」と言った。
彼には日本に帰れない事情がいろいろとあった。そういった事情を知りもしないで批判する彼の言葉によって非常に落ち込んでいると、彼は語った。
私は、「どうしてそんな言葉を聞いたんですか。」と言った。「流すとか、門前払いで聞かないようにするとかなぜしなかったのですか。」
クリスチャンは、絶対にお人よしになってはならない。他人に心を許してはならない。
なぜならば、どのような人を通じても、どのような時、場所、状況においてでも、サタンは隙をついてせめてくるから。
親切な言葉も罠になることがある。
ことに、自分の人生について「お説教」するような人間には注意しなければならない。
我々は、神の作品である。
それは、神だけが作る権利のあるものであり、人間が設計に口をはさむことは絶対にできない。
我々は、一人一人違った固有のプランに基づいて作られている者たちである。
我々の人生の行路について、「一般的」なパターンを当てはめることは絶対にできない。
「○○歳なんだから、結婚してそろそろ親を安心させないと。」なんていう言葉に乗ってはならない。
人生の進み方については、我々は神にすべてを委ねたのである。
だから、自分ですら、自分の人生の主ではない。
我々は、自分を含めて人間に、我々の人生の行路を決定させてはならない。
「導きに従う」ということ以外に我々に許された選択肢はない。
人のアドバイスを聞いて、心を許した瞬間にサタンは、神が定められた我々の人生行路を変える言葉を吹き込もうとする。
サタンが人間を通じて吹き込もうとした言葉に従うと、それまで平らな道を歩んでいたのに、突然、道以外のところを歩まされているような苦痛に襲われることになるだろう。
平安を失うようなアドバイスに耳を傾けてはならない。
門前払いという言葉をさきに使ったが、門は家に入れるか入れないかを決める重要な場所である。
我々は心の門を軽々しく開けてはならない。
2007年5月20日
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