神の自己認識こそ人間の世界認識の土台である3
アインシュタインの理論は光の速度を基準にしているが、光の速度が一定不変であるかどうかは不明である。
不動の被造物などこの世には存在しない。それゆえ、被造物を基準とする思想はことごとく誤謬である。
近代の思考革命の基本は、「自然を規範とする」ということにあった。
自然を無垢のもの、不動の基準とすることが我々の常識となっている。
そして、その無垢でも、不動のものでもないものを使って、超越者なる神をも評価しようとしたのが現代の諸思想である。
神が人間に評価の枠組みを与えるというのではなく、人間が評価の枠組みを作って、その中に神を入れたのである。
卑近な例で言えば、オーディションの会場で審査しているのは神ではなく、人間である。そして、神はそのオーディションを受ける候補者として呼ばれ、彼らの前で踊ったり歌ったりしている。
聖書を前提としない現代のキリスト教もこの誤謬の中に落ちたので、平気で神を候補者に貶め、「もうちょっとこういうふうにして欲しいなあ」と注文をつけているのである。
神がその注文に応じないと、評点欄に「不合格」と記入する。合格したのは、審査員の目にかなった「神々」である。それゆえ、教会で人々が崇めているのは、実はアイドル(偶像)なのである。
デカルト以降、人間は、自分には世界を自分の意思のとおりに作り変える権利があると考えてきた。それをさらに鮮明に打ち出したのはカントである。そして、ヘーゲルは、それに基づき、人間中心に聖書を再編し、聖書が教える世界観を再編した。マルクス主義は、そこから神の名を徹底して取り除いた。
現代世界のありとあらゆる部分は、人間のオーディションを経ている。人間のオーディションを経ていないものはすべて排除されている。
実証主義者が「ヘーゲルが作り出したものは実証科学的に無意味だ」と主張したとしても、誰かがその実証主義者に対して「あなたの立っている『人間の認識能力は絶対である』という前提が正しいとあなたは証明できるのですか」と尋ねると、彼らは答えに窮する。
つまり、ヘーゲルにしろ、実証主義者にしろ、もうありとあらゆる立場が、「人間は万物の審査者である」という前提を捨てていない以上、これらはクリスチャンが受け入れられるものではないのである。
今のすべての科学がこの前提に立っている。だから、我々は聖書の前提に立った「新しい体系」を作る以外にないのである。
古い体系は接木のできるようなものではない。種を植えるところからはじめなければならないのである。
創造主から出発する世界観を0から作る以外には道はないのである。
2004年5月9日
ツイート
ホーム