牧師のあら捜しをするサイト2


それから、こういうサイトを開くっていうことは、成熟したクリスチャンならば、まずやらない。

なぜかというと、神を恐れるから。

神を恐れるとはどういうことかというと、働き人ってのは、それがどんなにろくでもない人間であっても、神から召されている以上は、神の直接の権威を帯びている。

だから、簡単には非難できない。やると自分に全部返ってくる。

信仰生活を積むとこの原理が分かるようになる。

「牧師を批判すると、自分に返ってくる」という原理をクリスチャンは成熟する過程で学ぶ。

私は、若いころ、牧師の批判をした。すると、自分が働き人としてやる段になると、私がやったのと同じことをする人間が現れて同じシチュエーションで私を批判した。

神は報いるかただ。

自分が神の働き人にやったことは、必ず自分に返ってくる。

こういう霊的な勉強を積んでいくことが、霊的な成熟なのだ。

何十年もクリスチャンをやりながら、こんな初歩的なことも理解できないならば、どこかおかしいとしかいいようがない。

つまり、どういうことかというと、このサイトの作者は、クリスチャンの面をしているが、ノンクリスチャンだということ。

ノンクリスチャンの場合、神は悪魔に魂を渡されるから、やってはいけないことをやって、しかも、長いこと繁栄する。

しかし、最後の最後に神は彼をサタンの料理にゆだねるから、どん底に突き落とされる。

解決がない世界に叩き込まれる。

誰だって過去に傷はあるだろう。

牧師だから過去の傷を暴いていいというわけではないだろう。

自分がそうされたらどう思う?

自分がぐれていた時期の写真をいつもさらされて「彼は過去このようなことをした」と事あるごとに言われたらどう思う?

サタンはこういう過去をほじくることが大好きだ。

サタンは人の評判を落としたいわけだから、過去の出来事を振りかえることをやりたがる。

このサイトの主は正義感でやっているのかもしれないが、とんだ間違いだ。

正義なんてものではない。悪魔に利用されているだけだ。

教会に分裂を起こし、愛によらずに、裁きと中傷をはやらせたいのだ。

背後に隠れているものを見分けるのも我々の使命だということを忘れてはならない。

 

 

2009年8月17日

 

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