土台から築きなおそう


<T様>
私の家庭・生活環境はキリスト教でもありませんでしたし、悪魔・悪霊による霊障にも縁のないところで生きておりますので富井先生のお仕事の恩恵を切に直接に必要としている訳ではありませんが、意義のあるお仕事だと私は思います。

私の聖書的素養(それでも聖書は一冊持っていますが)は充分なものではありませんが、それでも発言や主張の多くは道理に適ったものであるといつも思っております。

・・・他のキリスト教の"先生"方の多くは説教などを通じて意図的に信者の頭と心をボンヤリ・ボケさせるように仕向けて信者を食い物ににしているように私には見受けられます。だから知的な(とはいえ"霊的"ではない、ということではありません)人間はあまり教会に近づかないのだ、とも。

教会の多くは既に悪魔の巣、とまではいいませんが、充分な(迷える子羊を守る)盾としてはあまり機能していないのではないでしょうか。

先生のお仕事を本当に必要としている「迷える羊」やその羊を導く(牧師・神父といった)「羊飼い」達に広く知られ受け入れられ一つの(いい言葉が浮かんでこないもので・・)フォースとして世の中に貢献できる時は近いとも思います。

非力な限りですが応援しておりますのでがんばってください。

<tomi>

(1)
「・・・他のキリスト教の"先生"方の多くは説教などを通じて意図的に信者の頭と心をボンヤリ・ボケさせるように仕向けて信者を食い物ににしているように私には見受けられます。だから知的な(とはいえ"霊的"ではない、ということではありません)人間はあまり教会に近づかないのだ、とも。」

まさに、同感です。

私は真理とは激しい議論に耐えられるものであるはずなので、真理を得ている人は少しもぼやかしたりごまかす必要はないと思っています。

「クリスチャンは律法には縛られません。殺人しても、姦淫しても、盗んでも自由です。しかし、すべてが益となるわけではない。だから、主に従いましょう。」

私は、こういった分裂したメッセージを20年も教会の講壇から聞きつづけてきました。実際にこれを語った人は、キリスト教界の大物と呼ばれた人です。

このレベルの話で大物になれるのですから、今までのクリスチャンがどんなに劣悪な環境に置かれていたか、ということです。

なぜ日本でキリスト教が広まらないのか、その原因の一つは、教会の教えそのものが幼稚だからです。

分裂したことを平気で言える。突っ込んだ質問をされると相手を煙にまいてごまかす。

日本の伝道の最も大きな失敗は、「教理を中心にしてこなかった」という点にあります。

感情が中心だった。説教は、いかに感動させる話ができるかに偏っていた。

社会の構造から見れば、感情に訴えるのは芸術です。論理に訴えるのは、大学であり、学界です。

どちらが社会の基礎を築いているかと言えば、もちろん、学問です。

学問が変われば早晩社会も変わります。

学問が社会の土台、柱、屋根に例えることができるならば、芸術は壁や屋根に塗られたペンキのようなものです。

どちらが大事か? ペンキが塗られていなくても、家に住むことはできるが、土台や柱や屋根がなければ家として機能しません。

キリスト教はターゲットを間違ってきた。ペンキの色を気にして、土台や屋根や柱に無頓着だった。

だから、社会に対してインパクトがなかった。

最近の礼拝メッセージを聞いていると、「あんた、ふざけてるのか?」といいたくなるような話。

ある牧師は、「私たちはイエス様にしっかりとつながっていなければならない。イエス様を羽交い絞めにしなければならない。」と言った。

明らかに受けを狙っているのだが、こうなればもう冒涜。

神を恐れるという発想が教会から欠落している。

だから、私は、このHPにおいて、難しいと考えられ、避けられてきた教理を大胆に述べてきた。

最初は、「難しいことを言わないで、笑い話など入れて・・・」と忠告されることもあった。しかし、今のはやりのフニャケタ話は避け、難しいテーマも扱ってきた。

「議論によって人は救われません。」とよく言われる。たしかに目の前にいる人を救いに導く手段として議論は賢い方法とはいえない。しかし、議論は、長期的に見ると大きな効果がある。

人間は理屈において納得すると大きな力を発揮する。

心の底から納得すれば、ほうっておいても熱心に活動する。

しかし、感情中心のアプローチをすると、人々はキリスト教や教会のことを、映画や音楽のように、「社会に潤いを与える装飾品」としか見なくなるので、社会的な影響を及ぼす人間になりにくい。

「勉強すると暗くなります。勉強ではなく、賛美することです!」というメッセージには飽き飽きした。

こういうことを好んで言う牧師ほど勉強していない。恐らく、劣等感を歪んだ形で埋め合わせようとしているだけだろう。

(2)
キリスト教は世俗の学問に完全に負けてきた。

世俗の学問において、真面目な学者は認識論を厳密に追求し、その理論のもとに自分の学問体系を築き上げます。

だから、彼らは、哲学の流れを完璧におさえており、人間はどこまで知ることができ、どこから知ることができないか、何が科学の対象で、何が科学の対象ではないか、をするどく区別しています。

どんどん掘り下げて、硬い岩盤を探そうとするから、一流の学者はたじろがない。質問されても堂々としている。

やっぱり深く掘り下げて学問に妥協せずに追求している人には自信がある。

しかし、何らかの動機から、虚偽を信じることを選びとった人々は、自分が深く掘り下げず、硬い岩盤の上に土台を据えていないから、非常に弱い。

質問すると怒り出す。

私の経験では、こういった感情重視、理屈軽視の人間にはろくなのがいないし、頼れる人間もいない。

キリスト教だけが首尾一貫した世界観を提供できる。しかし、クリスチャンはそれをしてこなかった。そのため、世俗の欠陥世界観が大手を振って歩いてきた。

私たちは、もう一度原点に立ち返って、土台から築きなおす必要があると思います。

 

 

2004年12月7日

 

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