運命を聖書啓示の上においてはならない
ある人の運命を見て、その人が正しい人生を歩んだか、それとも間違った人生を歩んだかを判断することはできない。
たしかに、聖書において、「祝福とのろい」の因果律はある。善人は祝福され、悪人はのろわれる傾向がある。
そして、長期的に見て、義人や正しい国民は繁栄し、悪人や悪い国民は衰退する傾向がある。
神をのろったソ連とか、ひどい人権侵害をしたナチスドイツなどは短命だった。
しかし、これは、ひとつの傾向であって、それが「最高の審判者」であると考えることは絶対にできない。
運命は啓示を超えられない。
運命を聖書以上のものと考えることは、被造物崇拝である。
聖書を超える基準はどこにも存在しない。
これは、自然啓示を特殊啓示の上におくものであり、自然宗教である。
人間が経験するいかなるものも、聖書啓示を超えて判断の基準とすることは結局のところ、偶像礼拝なのである。
2004年6月28日
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