新しい福音書が出てきた?3
大学入試で数学があった。だから、数学はかなり勉強した。
入試勉強で非常に利益があったのは、「題意を読み取る」という訓練だ。
長い設問がある。いろいろな情報が入っている。
その雑多な情報から本質だけを抜き出し、この設問者が何を求めているのかを読み取らないと点が取れない。
この作業には謙遜が必要だ。
「自分勝手に考えた題意」ではだめ。
相手が何を求めているのかに集中できなければならない。
聖書も同じで、聖書を読む際に、自分の思い込みで読むと間違う。
この記者は何をいいたいのか、を読み取らないと。
だから、いったん自分の心を真っ白にする必要がある。
そうすると、高い立場から眺めることができるようになる。
自分の願望が強くあるうちは、記者の意図は読み取れない。
聖書に関しては研究が尽くされているので、聖書解釈において、そうやたらと新しいものが出てくることはない。
奇抜な解釈はだいたいにおいて三文の値打ちもない。
異端者は、聖書の読み込みが得意だ。
自分に強い思い入れがあって、それに基づいて読むから奇抜な解釈がでてくる。
入試の数学なら0点を取るような人間だ。
題意を読み取るのではなく、自分の思い込みを優先するから、とんちんかんになる。
こういう異端ってのは、題材は何でもいいのだ。
用いる素材は、何でもいい。聖書でも仏典でも。
言いたいことは、聖書にも仏典にもなく、自分の思想だからだ。
だから、これ、ねずみ講と同じ。
商材は何でもいい。
「このナベはすばらしいんですよ!」
ナベでなくても、ふとんでも、洗剤でも何でもいい。
とにかく会員を増やして、その会員から上がる利益が問題だから。
商材がダメでもいいのだ。
だから、異端というものの特徴は、「教典にこだわりがない」である。
教典の一字一句の解釈にこだわる必要などない。
なぜならば、教典が何を言っていても、自分には別に言いたいことがあるから。
その自前の教えへのこだわりから抜けることができない。
横車を押して、ついに地獄に至る。
こちらが聖書から議論しようとしても、そういう輩は、聖書なんてどうでもいいと思っているのだから、同じ土俵に入らない。
入試とは、自己愛が強ければ勝てない。
横車を押して入試に勝つことなどできない。
だから、入試勉強には意味がある。
ただし、オウムなどに東大卒などがいるから、一概には言えないが。
結局、我流を貫く頑固者はどこにでもいるということだ。
そういう輩とは友達になるべきではない。影響されるから。
すがすがしい謙遜な人とつきあうべきだ。
2009年12月13日
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