モーセ律法を悪者扱いするな!2


>このようなことが可能となったのは、祭司系が変えられたからです。
>それによっていのちを与えない古い律法は破棄されました。かつて
>祭司はレビ系のものでした。しかし今やキリストがメルキデク系の
>大祭司として立てられました(ヘブル6:20)。これは古い律法によった
>のではなく、いのちの力によりました(ヘブル7:16)。キリストは自ら
>律法を全うするいのちの力を持っておられ、ご自身がいのちを与える
>霊として(1コリント15:45)、そのいのちを私たちに分与して下さったの
>です。私たちのうちにはキリストが生きていてくださいます(ガラテヤ2:20)。
>この方こそメルキデク系の祭司制度にふさわしい律法の実体であ
>り(ヘブル10:1)、私たちの義であり(1コリント1:30)、私たちのいのち
>の原動力であり(コロサイ1:29)、この方が私たちに神の標準を生きさ
>せて下さるのです。

この議論におおむね同意します。

ヘブル書において、新しい契約を打ちたてたキリストは、旧い契約が定めるレビ系祭司ではなく、レビ系祭司がそこから生まれた元であるアブラハムをも祝福する権威のあるさらに優れた永遠の祭司メルキゼデクの系統の祭司であったと記されています。

そして、祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければならないというのも事実です(ヘブル7・12)。

旧い契約は、礼拝する人々の罪を完全には清めることができないので、それは廃棄されたとあります。

たしかにそうです。私はこれに反対しません。

しかし、この個所から、「律法の第3効用も含むすべての要素が廃棄された」と結論するならば、それに同意することは絶対にできません。

このヘブル書の文脈を見るときに、それは、「犠牲制度」に関する話しであることを見落としてはなりません。

このヘブル書の記者は、犠牲のシステムが変化した、以前の犠牲のシステムでは誰も清めることができない、それゆえ、新しい犠牲が捧げられ、それは、完全な犠牲を達成した、と述べているだけです。

犠牲のシステム以外のすべての法制度も、律法の教導的効用も廃棄されたなどと一言も述べていない。

もし、このように述べることができるならば、聖書の中にある、無数の旧約律法肯定論とどう調和させるのでしょうか。

パウロが「信仰は律法を確立する」と述べたのをどう解釈しますか?彼が「律法も言うように、〜しなさい」と述べた個所をどう解釈しますか?

また、旧約聖書のイスラエルは、新約時代のクリスチャンの教訓のためだ、という個所をどう解釈しますか?(*)

ディスペンセーショナリズムの人々の律法廃棄論の決定的な間違いは、パウロ文書やヘブル書が、「律法は廃棄された」と述べるときに、「それは動物犠牲制度が廃棄されたと述べているにすぎない」ということを見落としていることです。

よくよく聖書を読んでみてください。

新約聖書の律法廃棄に関する発言は、キリストという実体が現れたので、本物のレプリカに過ぎない動物犠牲制度が廃止され、旧い犠牲システムは不要になったという主張に留まっていますから。

律法は、神の義と愛の反映であり、神の御性質に基づいているがゆえに、それは不変です。

神は、旧約時代には「姦淫の最高刑は死刑だ」と述べられたが、新約時代になると、「恋愛は自由だよ」と言っておられる、なんてことあるわけない。

神は、不変のお方であり、その倫理基準も不変。

今、ディスペンセーショナリズムが宣伝している「律法は廃棄されたのだから、人間の頭で作り出した道徳や教えでいい。」という考えは、聖書の裏づけがまったくないということに我々は気づくべきです。

ディスペンセーショナリズムが律法の第3効用まで廃棄できるという教えが流行った結果、教会の中に、人間の頭が作り出した奇妙奇天烈なリバイバル運動がはびこっている。

律法を失うと、人間はサタンが提供した「目に麗しく、味わうのに好ましい」教え(催眠術とか心理学とか)に振り回されることになるのです。


(*)
「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(1コリント11・11)

イスラエルは、律法に違反したために裁きにあいました。

これらは、つまり、「法への遵守と違反→祝福とのろい」という因果律が成立するということを実例で示すために神が記された。

これを教訓として我々に示したということは、すなわち、「法を守れ」ということを強調しているということ以外の何でしょうか???

たとえば、ある学校において、タバコを吸っているのを発見された生徒に処罰が下り、名前が公表された場合、それは、他の生徒に対して教訓とするためでしょう。

学校側の意図は、「タバコを吸ってはならない」という禁止命令の重要性を示すことにあったのでしょう。

仮に教訓話が、その中において、話者が ある掟や原理などを強調したい場合に話されるものであるならば、神がイスラエルの失敗を我々に示した場合、それ通じて「律法を守ることが大切だ」ということを神が強調されているということでなくて何でしょうか???

旧約聖書の律法が新約時代においても遵守すべきだということは、新約聖書自体が旧約聖書を教訓として位置付けていることから見ても明らかなのです。

 

 

2005年10月3日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp