律法はいのちを与えないか?15


<LUKEさん>

>それは、メルキゼデク系律法になっても変わりありません。

MS-DOSはWindowsになっても変わりありません。上位互換として吸収されるだけです、ということですね。

>キリストは、レビ系律法を成就され、そのすべてを全うし、メルキゼデク系律法に変化させました。

レビ系律法(MS-DOS)は、レビ系律法に拠らずに(主はユダ族です)、【いのちの力によって】大祭司とされたキリストのいのちを与えることができるメルキゼデク系律法(Windows)、すなわち【いのちの御霊の法則】にヴァージョンアップされた(上位互換)。ですから、Windowsに対して責任を負えば、自動的にMS-DOSは全うされるわけです。そこでパウロは

・御霊によって歩みなさい。そうすれば肉の欲を満たすことは決してありません。

・御霊によって歩む私たちにおいて律法の要求が満たされるのです。

と確証しています。私たちの責任はモーセ律法(=レビ系律法)に対するのではなく、御霊とその上位ヴァーションであるいのちの御霊の法則(=メルキゼデク系律法)ですよね。

<tomi>

上位バージョンであるメルキゼデク系律法は、モーセ律法の成就型です。

つまり、動物犠牲がキリスト犠牲にバージョンアップした。

それは、相変わらず「書かれた律法」なのです。

何度も言いますが、「律法の一点一画たりとも天地が滅びるまで地に落ちることはない」のです。

バージョンアップしたソフトは、普通、その前に行うことができたことを含んでいます。

だから、実質的にメルキゼデク系律法も、モーセ律法も同じものです。

それゆえに、パウロは、新約の民に向かって「モーセ律法を守れ」と言ったのです。

「御霊に従う」ということは、「律法を自動的に守れるようになる」ということではなく、「律法を知り、研究し、それを、意識してひとつひとつ守り行う」ということです。

旧約の民がやっていたのと同じように、「定めを落ち度なく踏み行う」(ルカ1・6)ということです。

イエスはそのような細かい律法遵守を望んでおられます。

「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」(マタイ23・23)

つまり、「正義・あわれみ・誠実」をおろそかにしてはならないが、「他のほう」、つまり、収穫物の十分の一をきちんと奉納することもおろそかにしてはならない、ということです。

すでに述べたように、「御霊に従う」とは「御心を行う」ということであり、「御心を行う」という具体的内容は、「御心を啓示した聖書の教えを行う」ということです。聖書には律法が含まれています。

ですから、「御霊に従う」ということが「律法の細心の遵守」を意味していることは明らかです。

「御霊に従う」というのは、旧約の民が行っていたような「細心の遵守」とは異なり、大雑把な遵守であるとか、「律法を研究したり、それらを一つ一つ実生活に適用する必要はない」ということであるならば、結局のところ、「律法を守るな」と言っているのと同じです。

 

 

2005年10月14日

 

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