進化論信者はクリスチャンではない
聖書は有機体である。
聖書を個々の文書の寄せ集めと考えることは、聖書啓示そのものを否定することである。
個々の文書は、それぞれ異なる個人によって記された。しかし、それを書かせ、まとめられたのは神だ。
だから、聖書は神の御心を啓示するためにそれぞれが互いに関連しあう完全体であり、人体と同様に互いに有機的に関連している。
人間の体の一部分を切り取ることが全体をおかしくするように、聖書の一箇所でも切り取ったり、全体の主張と無関係に解釈することは、人間の手足をばらばらに扱うことと等しくナンセンスである。
一箇所の解釈が他の箇所と矛盾するならば、その解釈を捨てなければならない。
たとえば、進化論は、神が他の箇所によって、「万物は御手によって創造された」と書いてある箇所と調和させることは絶対にできない。
進化論を信じることは、万物は神の主権のもとにないと宣言することに等しい。
神の万物に対する主権の基礎は、創造の事実にある。
もし自然や生物が進化によって自律的に成立したとすれば、神はその領域において主ではなくなる。
だから、進化論を信じながら、同時に神を信じるということは絶対にできない。
一方を取れば、他方を捨てることになる。
その人の信仰は、「部分的信仰」であり、「絶対的信仰」ではない。
つまり、「つまみ食い」の信仰である。
この信仰の根本的な動機は、「自我が主である」ということだ。
「私は、神をも命令する立場にいる」という傲慢。これこそが、進化論信仰の根底にある。
進化論信者は、偽クリスチャンであり、陪餐停止に値する。
聖書を有機体としてとらえず、つまみ食いするような信仰はキリスト信仰ではなく、異端である。
我々は、絶対に進化論を信じるクリスチャンを受け入れてはならない。
その人々を教会の交わりから追い出すべきだ。
2009年2月25日
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