聖書の一言一句へのこだわりがないキリスト教はキリスト教ではない
キリスト教は「ことばの宗教」である。
古来正統的なキリスト教は、聖書の一語一句を大切にしてきた。なぜならば、聖書は神の御言葉であり、最高権威なので、イイカゲンに扱うことができないからだ。
ファンダメンタリズムを批判する人々は、聖書の一語一句にこだわる態度を狂信的とか、復古主義とか、反科学的とか批評している。
このような批評が出てくるのは、彼らが、聖書を法典として認めていないからだ。
聖書は、神の掟であり(*)、それゆえ、法典である。だから、一語一句にこだわるのは当然である。
日本の法律家は、日本国の法律の一語一句にこだわる。なぜならば、日本は法治国家だから。
仮に日本が法治国家でなければ、先日の石原都知事の憲法軽視発言も許容されるだろう。
しかし、日本の王様は法律なのであって、ある特定の個人ではないのだから、個人の気まぐれな意見にではなく、法律の条文の一言一句にこだわるのは当然のことである。
法律を大雑把に扱うことは、それによって裁かれる人々を大雑把に扱うことに等しい。
我々を批判する人々の根本的な間違いは、聖書の一語一句にこだわらないところにある。
たとえば、「私は、三位一体の教理を受け入れられません。」という人々は、聖書の一語一句にこだわらない。彼らがこだわるのは、「自分の意見」である。
我々は、「聖書になんとかかれているか?」に集中するのに対して、彼らは「聖書になんとかかれているか、よりも、どう自分が感じるか、思うかだ。」という(ここまではっきり言う人はまれである。大体は雲隠れするだけだ)。
しかし、考えていただきたい。自分がどう思うか、なんてものは、芸術の探求にとっては意味がある場合もあるだろうが、真理の探究にはまったく無意味である。
なぜならば、自分の感覚とか意見は権威ではないからだ。
それとも、あなたは、創造者なのか?あなたは、私を造った者なのか?
そうでなければ、あなたには、「私はこう感じる。こう思う。」と言って相手を説き伏せる権利はない。
「自分の感覚や意見」というものを持ち出して相手を論破できると思ったら大間違いだ。
真理の探究者は、正当な権威に対して正当な手段で訴えなければならない。
日本の社会においては、日本の法律が権威なのだから、「法律に照らしてこれは正しい、間違っている・・・」という議論の仕方をしなければならない。
その場合、一言一句にこだわって、法律を正しく解釈し、正しく適用しようとしなければならない。
それと同じように、我々人間は、創造者なる神の意見である聖書の一言一句にこだわって、それを正しく解釈し、正しく適用することを第一に求めるべきである。
リベラル派は、このような「正典へのこだわり」がない。
リベラル派の特徴は、「俺はこう思うんだぁ!」と叫ぶことである。
彼らにとって聖書は権威ではない。聖書は人間の手による文書であるから誤りがあり、神の言葉が含まれていても、それそのものが神の言葉ではない。
じゃあ、彼らにとって何が権威なのか?「自分の理性」である。
彼らは、デカルト以降のヒューマニズムの「人間理性絶対論者」である。
聖書を権威の座からひきずり下ろして、自分がそこに座った人々である。
こういった聖書軽視は、19ー20世紀のあらゆる階層の人々に浸透した。
正統派のクリスチャンも例外ではなかった。
今の教会人を見たまえ。
聖書の裏付けなくモノを言う人間に満ちている。
「わたしは、そんな奇蹟信じられませんね。」「悪霊の追い出し?そんな馬鹿げたことやめなさい。」
こちらが「聖書は奇蹟も悪霊追い出しも述べています。」と反論しても、「わたしはそんなもの信じられません。もうやめてください。」と反応される。
「おいおい。あんたは神様かい・・・。」
こういった神への傲慢と冒涜は、御言葉軽視に由来するのだ。
今の終末論も同じだ。
「まもなく大患難が来る」など聖書のどこにも書いてないのに、さかんに言い張っている。
今日のキリスト教の逸脱は、聖書の一言一句へのこだわりがなくなったことに起因している。
自分の主観にあくまでもこだわる人間は、神の御言葉の権威に圧倒される体験をし、傲慢な魂を徹底して破壊される必要がある。
破壊は、私の仕事ではなく、神の仕事である。
(*)
旧約聖書の名称は正式には『律法と預言者』であり、預言者は、律法に違反した民への警告と救いの約束を告げる人々であったことから、律法が中心であるのは明らかである。
また、新約聖書は、福音書と手紙から成り立っており、イエスが旧約聖書において預言されていた律法の完成者、契約の主、契約の民の贖い主であることを証言するための書物である。それゆえ、旧新約聖書全体の中心が律法にあることは明らかである。
2004年11月21日
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