自由人になりたいなら増税に反対すべきだ
戦後、日本において一時的に統制経済が実施された結果、闇市が現れた。
ソ連でもブラック・マーケットがあり、国の理念とは別に物の流通があった。
国が無理な理念を押しつけても、人々は自然の状態を好むから、一つの国に矛盾したシステムが必ず生まれる。
この単純なことに国が気づけば増税など行わないはずだ。
人々は、自分の資産を守るために巧みな節税の方法を生み出すだろう。
新しい方法が現れると、その穴をふさぐために新しい法律を作るだろうが、いたちごっこである。
そろそろ悟れ。
取り過ぎているのだ。
国は人々から盗んでいるのだ。
聖書において、十分の一を取る王は「奴隷主」と呼ばれている。
「王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。…あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。…あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。」(1サムエル8・11、15、17)
ある国の国民が自由人であるか、それとも、奴隷であるかを測る基準は国が十分の一を取っているかどうかによって判断できる。
十分の一以上を取っている国は、国民を奴隷としているのである。
日本国も十分の一以上を取っているので奴隷国家である。
「福祉国家であり、税金は国民に還元されているから奴隷国家ではない」というだろうか。
実態は、利権階級のふところに入るだけで、無駄なフジツボのような組織や人々に流れているだけである。
国は十分の一以上を取ってはならない。
「税金が十分の一未満になれば、これまで受けられた様々なサービスを受けられなくなる」というだろうか。
国が行うサービスなど不要である。
競争もなく、コスト意識もない役所にサービスができると思うか?
役所に金が集まれば集まるほど、無駄な施設が作られ、カラ出張、闇給与などが増える。
結局、福祉とは、役人のふところを肥やすことにしかならない。
同じお金を、熾烈なサービス合戦をする民間に回したほうが効果的なのは火を見るより明らかである。
税金を、聖書が示す基準にしたがって、十分の一にすれば、我々国民は真の自由人になるのだ。
十分の一以上を許している間は奴隷である。
本当に自由人になりたいなら、増税に反対すべきだ。
2005年9月10日
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